路地裏の自販機

実録。知人の話です。

彼が二十歳後半の頃、東京・足立区の借家で一人暮らしをしていた。築三十年の長屋風の建物で、一階の端にキッチン、奥に風呂、二階がリビング兼寝室――そんな間取りだった。

問題は、その家に越して三週間目くらいから始まった。

毎晩、二時過ぎから三時の間に、自販機の音が聞こえるのだ。

「ガタン、ガタン」――硬貨が落ちる音。「ピロピロ」――飲み物の缶が落ちる音。

彼はその家に来るまで、自販機というものは「コインを入れる→ボタンを押す→音がする」という一連の動作で、全部で五秒もかからないものだと思っていた。知ってる人は誰でもそう思ってるはずだ。

でも、その音は違う。

「ガタン……ガタン……」

間が空く。三秒、五秒、場合によっては十秒以上空く。そして「ピロピロ」ではなく、何か別の音が続く。金属がこする音、あるいは、湿った布を絞るような音。それが二十秒、三十秒と続く。

そして、いつの間にか、静かになる。

彼が初めて聞いた時、最初は近所の子供の遊び声かなと思った。でも、毎晩同じ時間。毎日同じパターン。音の質が全く同じ。

「もしかして……」

ある夜、彼は布団から起き上がり、耳をすませた。

「ガタン……ガタン……」

音がする。廊下の方から。

彼の家には自販機なんてない。建物の外にあるはずだ。でも、窓から外を見ると、路地は完全に暗く、何も見えない。

「気のせいだ」

そう自分に言い聞かせて、布団に戻った。でも、音は消えない。二十分ほど経って、ようやく静かになる。

次の日、彼は昼間に路地を歩いてみた。

自販機があった。

細い路地の奥、壁にへばりつくように設置された、古い型号的な自販機。飲料の欄には、ほとんどが「お茶」だけ。数本だけ「コーラ」と「コーヒー」が入っている。

「こんな所にいるの、初めてだ」

彼は独りごちた。自販機の横には、小さな看板が立ててあった。

「お釣りはありません。ご協力ください。」

おかしい。彼は自販機の前で立ち尽くした。

看板の下に、お釣りトレイがあるはずだ。でも、そこには何もなかった。トレイの蓋が、どこか別のものに塞がれていた。

「壊れてるのか」

彼はそう思っていた。

その夜、また音が聞こえた。

「ガタン……ガタン……」

彼はもう怖くなかった。むしろ、興味が勝った。彼は窓のカーテンを少しだけ開けた。

路地の自販機が、白く光っていた。

そして、音がした。

「ガタン……ガタン……」

いつもの通り。でも、今回は違う音が混じっていた。

何か、硬貨を数えているような音。

「カチ、カチ、カチ……」

硬貨が金属の板に落ちる音ではない。硬貨が、何かに「噛み砕かれる」ような音。

彼はカーテンを閉めた。

次の日、彼は自販機に行った。

お釣りトレイを覗き込んだ。

中が、おかしかった。

トレイの奥に、硬貨が積まれていた。いや、積まれて「いる」のではない。硬貨が、溶けていた。

十円玉が、ドロドロに伸びて、他の硬貨と絡み合っている。百円玉が、半分に溶けて、自販機の底にへばりついている。

「これ……」

彼は背筋が凍るのを感じた。

その夜、彼は自販機を見に行った。

路地の奥まで歩き、自販機の前で立ち尽くした。

自販機は光っていた。でも、飲み物のボタンは一つも点灯していない。全てが暗い。

でも、中から音がした。

「ガタン……ガタン……」

硬貨を投入する音。

でも、誰も硬貨を入れていない。

彼は自販機のガラス面を覗き込んだ。

中の棚に、飲み物が並んでいた。お茶、コーラ、コーヒー。でも、その奥に、何か別のものが並んでいた。

瓶に入った、茶色の液体。

ラベルには、何かが書かれていた。

彼は顔を近づけた。

「お釣りはありません。」

その文字が、瓶のラベルに書かれていた。

彼が后退した瞬間、自販機の中が、一瞬、真っ暗になった。

そして、また光った。

棚に、飲み物が並んでいた。お茶、コーラ、コーヒー。

瓶は、消えていた。

それ以来、彼は引っ越した。

でも、引っ越してからも、たまに音が聞こえることがある。

「ガタン……ガタン……」

二時過ぎから三時の間。

彼が自販機の前を通りかかった時、いつもそう聞こえるらしい。


この話、知人の話です。彼は今でも、自販機の音に敏感になっているそうです。