路地裏の自販機が、僕のお釣りを返してくれなかった話
2026年08月18日
実録。知人の話です。
彼が二十歳後半の頃、東京・足立区の借家で一人暮らしをしていた。築三十年の長屋風の建物で、一階の端にキッチン、奥に風呂、二階がリビング兼寝室――そんな間取りだった。
問題は、その家に越して三週間目くらいから始まった。
毎晩、二時過ぎから三時の間に、自販機の音が聞こえるのだ。
「ガタン、ガタン」――硬貨が落ちる音。「ピロピロ」――飲み物の缶が落ちる音。
彼はその家に来るまで、自販機というものは「コインを入れる→ボタンを押す→音がする」という一連の動作で、全部で五秒もかからないものだと思っていた。知ってる人は誰でもそう思ってるはずだ。
でも、その音は違う。
「ガタン……ガタン……」
間が空く。三秒、五秒、場合によっては十秒以上空く。そして「ピロピロ」ではなく、何か別の音が続く。金属がこする音、あるいは、湿った布を絞るような音。それが二十秒、三十秒と続く。
そして、いつの間にか、静かになる。
彼が初めて聞いた時、最初は近所の子供の遊び声かなと思った。でも、毎晩同じ時間。毎日同じパターン。音の質が全く同じ。
「もしかして……」
ある夜、彼は布団から起き上がり、耳をすませた。
「ガタン……ガタン……」
音がする。廊下の方から。
彼の家には自販機なんてない。建物の外にあるはずだ。でも、窓から外を見ると、路地は完全に暗く、何も見えない。
「気のせいだ」
そう自分に言い聞かせて、布団に戻った。でも、音は消えない。二十分ほど経って、ようやく静かになる。
次の日、彼は昼間に路地を歩いてみた。
自販機があった。
細い路地の奥、壁にへばりつくように設置された、古い型号的な自販機。飲料の欄には、ほとんどが「お茶」だけ。数本だけ「コーラ」と「コーヒー」が入っている。
「こんな所にいるの、初めてだ」
彼は独りごちた。自販機の横には、小さな看板が立ててあった。
「お釣りはありません。ご協力ください。」
おかしい。彼は自販機の前で立ち尽くした。
看板の下に、お釣りトレイがあるはずだ。でも、そこには何もなかった。トレイの蓋が、どこか別のものに塞がれていた。
「壊れてるのか」
彼はそう思っていた。
その夜、また音が聞こえた。
「ガタン……ガタン……」
彼はもう怖くなかった。むしろ、興味が勝った。彼は窓のカーテンを少しだけ開けた。
路地の自販機が、白く光っていた。
そして、音がした。
「ガタン……ガタン……」
いつもの通り。でも、今回は違う音が混じっていた。
何か、硬貨を数えているような音。
「カチ、カチ、カチ……」
硬貨が金属の板に落ちる音ではない。硬貨が、何かに「噛み砕かれる」ような音。
彼はカーテンを閉めた。
次の日、彼は自販機に行った。
お釣りトレイを覗き込んだ。
中が、おかしかった。
トレイの奥に、硬貨が積まれていた。いや、積まれて「いる」のではない。硬貨が、溶けていた。
十円玉が、ドロドロに伸びて、他の硬貨と絡み合っている。百円玉が、半分に溶けて、自販機の底にへばりついている。
「これ……」
彼は背筋が凍るのを感じた。
その夜、彼は自販機を見に行った。
路地の奥まで歩き、自販機の前で立ち尽くした。
自販機は光っていた。でも、飲み物のボタンは一つも点灯していない。全てが暗い。
でも、中から音がした。
「ガタン……ガタン……」
硬貨を投入する音。
でも、誰も硬貨を入れていない。
彼は自販機のガラス面を覗き込んだ。
中の棚に、飲み物が並んでいた。お茶、コーラ、コーヒー。でも、その奥に、何か別のものが並んでいた。
瓶に入った、茶色の液体。
ラベルには、何かが書かれていた。
彼は顔を近づけた。
「お釣りはありません。」
その文字が、瓶のラベルに書かれていた。
彼が后退した瞬間、自販機の中が、一瞬、真っ暗になった。
そして、また光った。
棚に、飲み物が並んでいた。お茶、コーラ、コーヒー。
瓶は、消えていた。
それ以来、彼は引っ越した。
でも、引っ越してからも、たまに音が聞こえることがある。
「ガタン……ガタン……」
二時過ぎから三時の間。
彼が自販機の前を通りかかった時、いつもそう聞こえるらしい。
この話、知人の話です。彼は今でも、自販機の音に敏感になっているそうです。