アシナ工務店のエレベーター
2026年08月01日
深夜のマンションに届け物をして、僕はエレベーターに乗り込んだ。
フロアボタンは3つしかない。B2・1F・6F。住人の住所は3Fだったから、押すのは当然6F。親指が押された瞬間、何かがおかしいと感じた。数字が点滅しているのではなく、B2のランプだけが青白く光っている。
“待って、僕は3…”
エレベーターはまだ動きだしていなかったのに、中に入った人の姿が見えなくなった。前の階で降りていった客と入れ替わったような錯覚で5秒間唖然としただけ。
扉が開いたときに出た風は湿っていて、下水の匂いがした。外は6Fの廊下ではなく、コンクリートの壁に囲まれた地下空間だった。明かりは白熱球一つが垂れ下がっていて、揺れる影が壁を這っているのが見える。
僕はすぐにボタン1Fを連打した。10回20回。何もしない。でもB2のボタンのランプが今度は僕を押さなくても光り続けた。指に触れていないのに熱かった。
次の瞬間、エレベーターは動き出た。
重くなる音が床から上がってくる。1Fの表示が出る直前で止まったかと思うと…1Fにはいなかった。次の表示は4.5Fだった。数字が一瞬だけ半分に折れるのを見たのはおそらく気のせいだろう。
そして着地した。
扉が開いた向こうは3Fの廊下で、いつもの静けさが戻っていた。エレベーターから外に出た瞬間に心臓が戻った音が聞こえた。振り返ると中身を見知らぬ中年男性が一人で立っていて、僕の顔を見て苦笑いした。
「またB2に行く」
彼はそう言って僕と同じように1Fを押した。しかし彼は3に指を差すのではなく、自分の胸のポケットから何か取り出し、B2ボタンと1Fボタンの間に挟んだ。何かが挟まった瞬間、エレベーターが軽い跳ねを感じて走り出した。
僕は後を追おうとしたけど無理だった。エレベーターは6Fで止まり、乗客が出て行った後の姿を見ることもなかった。
マンションの管理人に話をした。その男性について訊ねると「アシナ工務店で3年働いている人だ、もう引退してる」とのこと。しかしB2フロアについてはこう返事された。
「B2にはエレベーターが来ません。設計図にそう書いてある」
次の日の夜も同じ時間に来て、僕は3Fから1Fのエレベーターに乗った。今回はB2のランプは消えていた。
しかし降りていく途中に、床が重く跳ねた。表示パネルには「5」「4.5」「3…」「2.5」と数字が流れて終わった後に、再び静寂が戻ってきた。1F着地したとき、ドアの隙間から下が何か見えた。それはエレベーターの底と床面の間に挟まれた、小さな黒い紙切れだった。
僕はそれを外に出して拾おうとしたけれど、すでに次の瞬間に清掃員が見えていた。僕の手から目を逸らしながら「この辺り、もう綺麗ですよ」と言い捨てて去っていった。
紙切れは消えていた。でも僕の指先だけが妙に湿っていて、下水の匂いがまだ残っていた。