バックミラーの怪異

僕がそのことに気づいたのは、仕事帰りの深夜だった。

会社は山の手線の沿線にある。終電は午前二時十五分。普段はそれより前に家を出るので、地下駐車場に車を止めるのは稀だった。その日も残業が伸び、地下二階の駐車場のエレベーターホールまで歩いてきたのは夜の十一時四十分過ぎ。

駐車場はいつも静かだ。蛍光灯がチカチカと点滅し、車の排気ガスの匂いが薄く漂う。僕はいつものように自分の車の後ろに回り、キーファックでドアを開けた。エンジンがかかり、バックミラーを調整しているとき、ふと違和感を覚えた。

バックミラーに映る駐車場の通路が、いつもと違う。

普段は通路の先に白い壁が見えるはずなのに、ミラーには何もない。真っ暗な空間が広がっている。一瞬、ミラーの角度がずれたのかと思った。手で調整すると、また白い壁が見える。

「またか」

僕はそう呟き、エンジンをかけた。地下駐車場はたまにこういうことがある。蛍光灯の点灯不良とか、センサーの誤作動とか。気にしないことにしていた。

しかしその夜は違った。

車をバックさせようとしたとき、バックカメラの画面に何かが映った。一瞬のことだった。僕がバックミラーを見直すと、後方の通路に人影が立っている。

誰もいない。

「……はあ」

僕は苦笑いしてバックレバーを入れた。車がゆっくり後ろに下がっていく。バックカメラの画面には、通路の白い壁だけが映っている。

そのときだった。

バックミラーに、もう一度人影が映った。

今度ははっきりと見えた。黒い服を着た人物が、通路の中央に立っていて、僕の車の方を見つめている。距離は三十メートルくらい離れている。

僕はハッとしてブレーキを踏んだ。車が止まる。ミラーに映る人影も止まっている。

「……誰だ」

声が勝手に漏れた。駐車場に響き、金属的な反響が返ってくる。人影は動かない。

「誰かいるなら声をかけてください」

二度目に言った声は、自分でも小刻みに震えているのがわかった。人影はゆっくりと、頭を傾げた。まるで僕の声に反応しているようだ。

そして歩き出した。

僕の車の方へ、ゆっくりと。

僕は後退りレバーを握ったまま、アクセルを踏んだ。車が後ろに動き出す。ミラーに映る人影は、僕が動くたびに同じペースで近づいてくる。スピードは変わらない。追いかけているのではない。歩道を歩いているだけなのに、僕が動くたびに距離を詰めてくる。

「おかしい……」

僕はアクセルを強めた。車が速くなる。人影も同じペースで速くなる。追従している。

駐車場を後にしようとしたとき、人影が何かに手を伸ばした。その瞬間、バックカメラの画面がノイズにまぎれた。一瞬、ノイズの中に顔が映ったような気がした。人間の顔が、画面の中で歪みながら僕の方を向いている。

僕は窓を開けて外を見た。後方の通路は何もなかった。

「……」

息を吐きながら、バックミラーを見直した。

ミラーには、僕の顔が映っている。

しかし、僕の顔の後ろに、もう一つ顔があった。

窓ガラスの向こう、車の後部座席に、黒い服を着た人物が座っていた。僕が振り返る前に、ドアロックの音が鳴った。

鍵が自動で 걸れた。

僕は慌ててドアノブを引いた。動かない。窓を割ろうとして、後部座席の人物がゆっくりと、僕の方向を向いた。

顔が見えなかった。

ただ、ミラーにその顔がはっきりと映っているのがわかった。

次の日、警察に届けを出した。駐車場の監視カメラを確認してもらった。

「車内に誰もいませんよ」と警官は言った。

「でも、バックミラーに——」

「バックミラーに何が?」

僕は言葉を失った。監視カメラの映像には、僕の車が一人で駐車場の通路を走っている様子だけが映っていた。

家に帰って自分の車をよく見てみた。後部座席に、小さな水滴がいくつか落ちていた。駐車場の床には、水滴が落ちた跡が一直線に、エレベーターホールまで続いていた。

水滴は、外から内へ、僕の方へ向かって消えていた。