地下駐車場のバックミラー
2026年10月16日
僕がそのことに気づいたのは、仕事帰りの深夜だった。
会社は山の手線の沿線にある。終電は午前二時十五分。普段はそれより前に家を出るので、地下駐車場に車を止めるのは稀だった。その日も残業が伸び、地下二階の駐車場のエレベーターホールまで歩いてきたのは夜の十一時四十分過ぎ。
駐車場はいつも静かだ。蛍光灯がチカチカと点滅し、車の排気ガスの匂いが薄く漂う。僕はいつものように自分の車の後ろに回り、キーファックでドアを開けた。エンジンがかかり、バックミラーを調整しているとき、ふと違和感を覚えた。
バックミラーに映る駐車場の通路が、いつもと違う。
普段は通路の先に白い壁が見えるはずなのに、ミラーには何もない。真っ暗な空間が広がっている。一瞬、ミラーの角度がずれたのかと思った。手で調整すると、また白い壁が見える。
「またか」
僕はそう呟き、エンジンをかけた。地下駐車場はたまにこういうことがある。蛍光灯の点灯不良とか、センサーの誤作動とか。気にしないことにしていた。
しかしその夜は違った。
車をバックさせようとしたとき、バックカメラの画面に何かが映った。一瞬のことだった。僕がバックミラーを見直すと、後方の通路に人影が立っている。
誰もいない。
「……はあ」
僕は苦笑いしてバックレバーを入れた。車がゆっくり後ろに下がっていく。バックカメラの画面には、通路の白い壁だけが映っている。
そのときだった。
バックミラーに、もう一度人影が映った。
今度ははっきりと見えた。黒い服を着た人物が、通路の中央に立っていて、僕の車の方を見つめている。距離は三十メートルくらい離れている。
僕はハッとしてブレーキを踏んだ。車が止まる。ミラーに映る人影も止まっている。
「……誰だ」
声が勝手に漏れた。駐車場に響き、金属的な反響が返ってくる。人影は動かない。
「誰かいるなら声をかけてください」
二度目に言った声は、自分でも小刻みに震えているのがわかった。人影はゆっくりと、頭を傾げた。まるで僕の声に反応しているようだ。
そして歩き出した。
僕の車の方へ、ゆっくりと。
僕は後退りレバーを握ったまま、アクセルを踏んだ。車が後ろに動き出す。ミラーに映る人影は、僕が動くたびに同じペースで近づいてくる。スピードは変わらない。追いかけているのではない。歩道を歩いているだけなのに、僕が動くたびに距離を詰めてくる。
「おかしい……」
僕はアクセルを強めた。車が速くなる。人影も同じペースで速くなる。追従している。
駐車場を後にしようとしたとき、人影が何かに手を伸ばした。その瞬間、バックカメラの画面がノイズにまぎれた。一瞬、ノイズの中に顔が映ったような気がした。人間の顔が、画面の中で歪みながら僕の方を向いている。
僕は窓を開けて外を見た。後方の通路は何もなかった。
「……」
息を吐きながら、バックミラーを見直した。
ミラーには、僕の顔が映っている。
しかし、僕の顔の後ろに、もう一つ顔があった。
窓ガラスの向こう、車の後部座席に、黒い服を着た人物が座っていた。僕が振り返る前に、ドアロックの音が鳴った。
鍵が自動で 걸れた。
僕は慌ててドアノブを引いた。動かない。窓を割ろうとして、後部座席の人物がゆっくりと、僕の方向を向いた。
顔が見えなかった。
ただ、ミラーにその顔がはっきりと映っているのがわかった。
次の日、警察に届けを出した。駐車場の監視カメラを確認してもらった。
「車内に誰もいませんよ」と警官は言った。
「でも、バックミラーに——」
「バックミラーに何が?」
僕は言葉を失った。監視カメラの映像には、僕の車が一人で駐車場の通路を走っている様子だけが映っていた。
家に帰って自分の車をよく見てみた。後部座席に、小さな水滴がいくつか落ちていた。駐車場の床には、水滴が落ちた跡が一直線に、エレベーターホールまで続いていた。
水滴は、外から内へ、僕の方へ向かって消えていた。