駐輪場のチャイム
2026年09月04日
実話。僕の知人の話だ。
彼は東京都心のアパート、築三十年の鉄筋二階建ての三階に住んでいた。築三十年といっても外観はそれほど古びておらず、むしろ周囲に高層マンションが建ち並ぶ中で、ひときわ味のある佇まいを保っていた。ベランダから見える景色は悪くなかった。
問題は駐輪場にあった。
アパートの裏手にコンクリートブロックで囲まれた駐輪場がある。広さは十台ほど。屋根は付いているが、三面が開放されていて、風が通る。鍵は一つずつのワイヤーロックで、管理人室に予備キーがあるタイプだった。
彼が引っ越して一週間目のある夜のことだった。
深夜二時過ぎ、彼はトイレに起きた。寝室からトイレまで廊下を渡ると、ふと外から何か音がした。
「チッ」
チャイムだ。自転車のチャイム。
彼は窓の外を見た。駐輪場は月明かりでうっすらと照らされている。誰もいない。風もない。
「風でチャイムが鳴ったのかな」
そう思い、彼はまた寝付こうとした。
三十分後、また鳴った。
「チッ、チッ」
今度は二回。間隔も一定で、まるで誰かが押したように。
彼は窓まで行って見た。駐輪場には彼の自転車――黒いママチャリ――が一台、隅に停まっているだけだ。他には前の入居者が置き去りにしたであろう、錆びた子供用自転車があった。
何も動いていない。
しかしチャイムは止まない。
「チッ……チッ……チッ……」
一定のリズムで、間隔をあけながら鳴り続ける。まるでどこかに知らせを送っているように。
彼はカーテンを閉めた。神経質になるのは嫌だった。でも、チャイムは三十分以上鳴り続けた。
次の日、彼は駐輪場を確認した。彼の自転車のチャイムは正常に鳴った。錆びた子供用の自転車にも、小さなチャイムが付いていたが、押しても音は出ない。
「昨夜のは何だったんだろう」
彼は友人にLINEで送った。友人は「風でチャイレが鳴ったんでしょ」と返してきた。
その夜もチャイムは鳴った。今度は午後十一時。彼は起きていたから、窓からはっきりと見た。
駐輪場に誰もいない。でもチャイムは鳴っている。
「チッ……チッ……チッ……」
そして、ふと止んだ。
その直後、彼の駐輪場の隅、彼の自転車の前輪が、ゆっくりと、五センチほど動いた。
ワイヤーロックは掛かったままだった。
彼は翌日、駐輪場の鍵を確認した。管理人室の予備キーは二本しかない。一つは彼が持っている。もう一つは管理人が常に携帯している。
「鍵が開いたわけがない」
彼は警察にも届けなかった。警察に行っても「風でしょう」と言われるだけだと思ったから。
しかし、その日から一ヶ月間、チャイムは毎日決まった時間に鳴った。午後十一時、深夜二時、朝四時。
三回とも、チャイムが止んだ直後に、前輪が五センチ動いた。
彼は駐輪場の自転車を室内に持ち込んだ。自分の自転車だけ。残りのスペースには、前の入居者の錆びた子供用自転車が、そのまま置かれたままだった。
ある夜、深夜二時。チャイムは鳴らなかった。
彼はほっとした。
でも、朝起きたら、駐輪場の錆びた子供用自転車のチャイムが、押された後だった。ワイヤーロックは、外されていた。
彼の自転車は、室内にあった。
子供用自転車の前輪は、彼が寝ている寝室の方向を向いていた。
彼はそのアパートを引っ越した。
引っ越し業者が駐輪場で「この錆びた自転車、捨てていいですか」と聞いてきた。彼は即座に「捨ててください」と答えた。
業者が子供用自転車を車に積んでいるとき、チャイムが一度だけ鳴った。
「チッ」
一声だけ。
業者は「風ですねえ」と笑った。
彼はその後、そのアパートの駐輪場で、誰かがその子供用自転車に乗っているのを見たという話はない。でも、時々、深夜にチャイムが鳴る音がする。
自分の車は锁めているのに。