知人の話だ。彼女の名前は由紀(ゆき)。二十五歳、新宿のビルで働くOLだ。

由紀の職場は新宿駅西口から直接つながっているビルの十二階にある。朝のラッシュは辛いけど、地下鉄に直接乗り換えられるのは大きい。彼女はその利便性から、毎朝同じコインロッカーを使っていた。

駅西口の地下通路。人の少ない隅に、古いコインロッカーの列が並んでいた。由紀が使っていたのは、その列の一番端のF-14番。幅六十センチ、奥行き四十センチほどの小ロッカーだ。

「毎日、ジムバッグを預けているから」由紀は言った。

問題は十二月のある月曜日から始まった。

由紀がF-14番のロッカーを開けたとき、ジムバッグが少し湿っていた。中身のカジュアルシャツの袖部分が、指で触るとわずかに濡れている。

「あ、汗が染み込んだかな」

そう言って、由紀は特に気にせずその日を過ごした。

火曜日。またロッカーを開けると、ジムバッグの底に、小さな紙くずが一つ落ちていた。使い捨てマスクの耳かけ部分だ。

「誰かが前の使用者、カゴに残したゴミかな」

水曜日。今度はジムバッグのファスナーの歯に、髪の毛が一本、からまっていた。長い、黒い髪。

由紀はファスナーをほどいて、髪の毛を拾い出した。

「……変だ」

由紀はロッカーの奥を覗き込んだ。薄暗いロッカーの中を、手机のライトで照らす。

床に、小さな水滴が一つ、あった。

水滴の直径は五ミリくらい。水滴の周囲は、ロッカーの床がわずかに黒く染んでいた。

「水漏れ? それとも、前の人が飲んだペットボトルが漏れた?」

木曜日。由紀がロッカーを開けた瞬間、嫌な匂いがした。

カビたような、湿った布地の匂い。ロッカーの奥から、ゆっくりと漂ってくる。

由紀がジムバッグを取り出そうと手を伸ばしたとき、バッグの底で、何かカサカサと音がした。

バッグの中身を確認すると、由紀が忘れたはずのティッシュが、一枚、入っていた。

使い捨てのハンカチのようなティッシュ。半分ほど使われていて、端がよれている。

「……私が忘れた?」

由紀はティッシュをゴミ箱に捨て、ロッカーの扉を閉めた。

その夜、由紀はふと気づいた。

F-14番のロッカーは、列の端にある。隣には他のロッカーがなく、壁に面している。

壁とロッカーの隙間には、ほんの二センチくらいのすき間がある。

二センチなら、手は入る。

由紀は手机のライトをロッカーのすき間に当ててみた。

暗い。でも、光が壁に反射している。

そのときだった。

光の反射の先に、何かが動いたのが見えた。

ロッカーのすき間の奥で、小さな影が、ゆっくりと横に移動した。

由紀は手机をゆっくりと引き抜いた。心臓が早鐘を打っているのがわかった。

「……猫でも入ってるのかな」

由紀はロッカーの扉を完全に開けた。

中は空だった。

でも、ロッカーの奥の隅に、小さな濡れた手形があった。

指の形が、はっきりと残っている。

由紀はすぐに駅員室に駆け込んだ。

「F-14番のロッカー、なんか変なんです。中に、誰か入ってました」

駅員は不思議そうに言った。

「F-14番? ああ、あのロッカーは使えないようになってますよ。鍵がかからないんです」

「でも、私は毎日使っています。鍵もちゃんと閉まりますよ」

駅員は少し黙って、言った。

「……そうですか。じゃあ、一度見てきますね」

駅員がF-14番のロッカーを確認した。鍵穴に埃がたまり、回らない。

「本当に使えていたんですね。でも、このロッカー、内部の機構が壊れてて、中の温度が外より低くなってるんです。冬は特に」

「温度が……」

「中の空気がこもって、結露が起きる。だから水滴が出るんです」

由紀は納得いかないまま、その場を離れた。

次の日、由紀はF-14番のロッカーを開けた。

ジムバッグは、先日よりさらに湿っていた。

そして、バッグの底に、新しいものが一つ、入っていた。

小さな写真だ。

由紀が写真を持ち上げてみると、それは由紀自身がジムバッグをロッカーに入れているところの写真だった。

下から、上を見上げるアングル。

ロッカーの中から撮られた写真だ。

由紀は写真をロッカーの床に置き、扉を閉めた。

扉を閉めた瞬間、ロッカーの中から、かすかに息をする音が聞こえた。

ゆっくりと、深くなっている。

由紀は扉を再度開けた。

中は空。

でも、ロッカーの床に、先ほどの写真が、戻されていた。

由紀がその日使ったロッカーは、F-14番ではなくなった。

隣のE-14番にジムバッグを移した。

由紀は駅員に「F-14番、使えないって言われたから」と伝えた。

駅員はうなずいて言った。

「あ、そうですか。じゃあもう解放しておきますね」

由紀がその言葉を聞いた瞬間、背筋が凍った。

「解放……?」

「ああ、鍵がかからないロッカーは、定期的に空にして中を確認してるんです。昨日も確認しましたけど、中に何も入ってませんでしたよ」

由紀は黙ってその場を離れた。

その夜、由紀は手机の相册を整理していた。

ジムバッグの写真が、何枚か手机に入っていることに気づいたのだ。

由紀が手机で写真の確認を始めたとき、彼女は気づいた。

由紀がジムバッグをロッカーに入れている写真。

その写真の下から、小さな手が、伸びている。

ロッカーの底から、写真の隅に、指が一本、写っていた。

由紀は手机を床に落とした。

翌日、由紀はF-14番のロッカーの前に立った。

ロッカーの扉をゆっくりと開ける。

中は空だ。

でも、床に、水滴が一つ、あった。

由紀がその水滴に近づいてみると、水滴が、ゆっくりと、広がっていた。

水滴の中心に、小さな文字が浮かび上がっている。

「また、明日」

由紀はF-14番のロッカーから、ゆっくりと後ずさりした。

その日から、由紀は新宿駅西口の地下通路を通らなくなった。

朝、一駅手前で降りて、二十五分歩いて職場に向かうようになった。

朝のラッシュを避けるために、二十分も余計に歩くようになったのだ。

由紀はもう、F-14番のロッカーには行かない。

でも、たまに思うことがある。

由紀がF-14番のロッカーにジムバッグを預けていた期間、七日間。

七日間、ロッカーの中から、誰かが由紀を見ていた。

由紀がロッカーを開けるたびに。

由紀がバッグを取り出すたびに。

由紀が、気づかずに、顔に近づけていたたびに。

コインロッカー