出汁の味
2026年03月16日
夜の十一時を過ぎてから会社を出た。
冷たい雨が降っていた。傘を忘れたことに気づいたのは、エレベーターを降りた後だった。どうせ濡れるならと、駅までの最短ルートを避け、屋根のあるアーケードを迂回することにした。
その晩に見つけた。
アーケードを抜けた先の細い路地。見慣れた道のはずなのに、橙色の提灯がぶら下がっているのに気づいた。
屋台だった。
雨の中、その光だけが異様に温かかった
「どうぞ」
老人が言った。深く笠をかぶっているせいで、顔がよく見えなかった。白い割烹着を着て、厚い手で木製のカウンターを静かに拭いている。
断る理由がなかった。いや、正直に言えば、吸い寄せられるような気がした。体の芯まで冷え切っていたせいかもしれない。
カウンター席に腰を下ろした。
「ラーメンでいいですか」と老人は訊いた。
メニューも見せずに。
「はい」と私は答えた。
出てきた器は、大ぶりの白磁だった。澄んだ琥珀色のスープが、湯気を立てて揺れている。麺は細く、縮れていた。チャーシューが一枚、葱が少し。飾り気のない一杯だった。
口をつけた瞬間、世界が変わった。
正確に言えば、何かが溶けた。
喉の奥から始まって、胸の中心、胃の底、それから体の隅々まで。温かさが広がるというより、ある種の緊張がほぐれていくような感覚。長い間ずっと握りしめていたものを、初めて手放すような。
「おいしい」
声に出るとは思っていなかった。老人は何も言わなかった。ただ、鍋をゆっくりとかき混ぜ続けていた。
気づいたら丼が空になっていた。
次の朝、母の誕生日だということを忘れていた。
電話を取ろうとして、ふと手が止まった。母の声が思い出せなかった。顔は浮かぶ。しわのよった目元、白髪交じりの髪。でも声が、どうしても出てこなかった。
おかしいとは思った。でも、それだけだった。
一週間後にまた屋台を見つけた。同じ路地、同じ提灯の光。
「また来たんですね」と老人は言った。
今度は訊かれる前に注文した。同じものを。
スープの一口目。また何かが溶けた。
今度は記憶の輪郭だったかもしれない。小学校の体育館の匂い、初めて乗った自転車の転び方、誰かの笑顔の細部。それらが澱のように沈んで、スープの底に混ざっていくような気がした。
気のせいだ、と思った。
三週間が経つころには、週に三回、屋台に通っていた。
雨の夜でも、晴れた夜でも、気づくと足が路地に向かっていた。出汁の香りが、遠くから呼んでいるような気がした。いや、本当に聞こえていたのかもしれない。
スープはいつも同じ味だったが、飲むたびに何かが変わった。
飲んだ後の自分が、少しずつ軽くなっていった。荷物を降ろすというより、中身が抜けていくような感じ。それが怖いとは思わなかった。むしろ楽だった。
ある夜、湯気に顔を近づけた時、見えた。
最初は見間違いだと思った
湯気の中に、顔があった。
輪郭だけの、薄い顔。口が開いていた。目の穴が黒かった。それが一つではなく、二つ、三つ。湯気が揺れるたびに形を変え、消えかけて、また現れた。
「気になりますか」
老人の声だった。
顔を上げると、老人が初めて笠を外していた。
顔がなかった。正確には、あった。しかしそれは一枚の顔ではなく、無数の顔が重なり合っていた。男の顔、女の顔、子供の顔、老人の顔。それらがゆっくりと入れ替わりながら、老人の輪郭の中に収まっていた。
「皆さん、ここに帰ってきます」
老人は静かに言った。
「忘れるより、この方が楽でしょう」
私は何も答えられなかった。いや、答えようとしたのかもしれない。でも、言葉が出てこなかった。自分の名前を探したが、どこにもなかった。
家に帰って、洗面台の前に立った。
鏡を見た。
映っていなかった
映っていなかった。
鏡の中には、部屋の壁と、天井の電球だけがあった。私が立っているはずの場所に、何もなかった。
恐怖は、なかった。
不思議なことに、何も感じなかった。ただ、鏡の表面が少しだけ曇っているような気がした。吐息がかかったように。
今夜も、出汁の香りがする。
路地の方から。
私は上着を羽織って、玄関のドアを開けた。
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