夜の十一時を過ぎてから会社を出た。

冷たい雨が降っていた。傘を忘れたことに気づいたのは、エレベーターを降りた後だった。どうせ濡れるならと、駅までの最短ルートを避け、屋根のあるアーケードを迂回することにした。

その晩に見つけた。

アーケードを抜けた先の細い路地。見慣れた道のはずなのに、橙色の提灯がぶら下がっているのに気づいた。

屋台だった。

深夜の路地に灯る屋台

雨の中、その光だけが異様に温かかった

「どうぞ」

老人が言った。深く笠をかぶっているせいで、顔がよく見えなかった。白い割烹着を着て、厚い手で木製のカウンターを静かに拭いている。

断る理由がなかった。いや、正直に言えば、吸い寄せられるような気がした。体の芯まで冷え切っていたせいかもしれない。

カウンター席に腰を下ろした。

「ラーメンでいいですか」と老人は訊いた。

メニューも見せずに。

「はい」と私は答えた。

出てきた器は、大ぶりの白磁だった。澄んだ琥珀色のスープが、湯気を立てて揺れている。麺は細く、縮れていた。チャーシューが一枚、葱が少し。飾り気のない一杯だった。

口をつけた瞬間、世界が変わった。

正確に言えば、何かが溶けた。

喉の奥から始まって、胸の中心、胃の底、それから体の隅々まで。温かさが広がるというより、ある種の緊張がほぐれていくような感覚。長い間ずっと握りしめていたものを、初めて手放すような。

「おいしい」

声に出るとは思っていなかった。老人は何も言わなかった。ただ、鍋をゆっくりとかき混ぜ続けていた。

気づいたら丼が空になっていた。


次の朝、母の誕生日だということを忘れていた。

電話を取ろうとして、ふと手が止まった。母の声が思い出せなかった。顔は浮かぶ。しわのよった目元、白髪交じりの髪。でも声が、どうしても出てこなかった。

おかしいとは思った。でも、それだけだった。

一週間後にまた屋台を見つけた。同じ路地、同じ提灯の光。

「また来たんですね」と老人は言った。

今度は訊かれる前に注文した。同じものを。

スープの一口目。また何かが溶けた。

今度は記憶の輪郭だったかもしれない。小学校の体育館の匂い、初めて乗った自転車の転び方、誰かの笑顔の細部。それらが澱のように沈んで、スープの底に混ざっていくような気がした。

気のせいだ、と思った。


三週間が経つころには、週に三回、屋台に通っていた。

雨の夜でも、晴れた夜でも、気づくと足が路地に向かっていた。出汁の香りが、遠くから呼んでいるような気がした。いや、本当に聞こえていたのかもしれない。

スープはいつも同じ味だったが、飲むたびに何かが変わった。

飲んだ後の自分が、少しずつ軽くなっていった。荷物を降ろすというより、中身が抜けていくような感じ。それが怖いとは思わなかった。むしろ楽だった。

ある夜、湯気に顔を近づけた時、見えた。

湯気の中に浮かぶもの

最初は見間違いだと思った

湯気の中に、顔があった。

輪郭だけの、薄い顔。口が開いていた。目の穴が黒かった。それが一つではなく、二つ、三つ。湯気が揺れるたびに形を変え、消えかけて、また現れた。

「気になりますか」

老人の声だった。

顔を上げると、老人が初めて笠を外していた。

顔がなかった。正確には、あった。しかしそれは一枚の顔ではなく、無数の顔が重なり合っていた。男の顔、女の顔、子供の顔、老人の顔。それらがゆっくりと入れ替わりながら、老人の輪郭の中に収まっていた。

「皆さん、ここに帰ってきます」

老人は静かに言った。

「忘れるより、この方が楽でしょう」

私は何も答えられなかった。いや、答えようとしたのかもしれない。でも、言葉が出てこなかった。自分の名前を探したが、どこにもなかった。


家に帰って、洗面台の前に立った。

鏡を見た。

鏡の前に立つ

映っていなかった

映っていなかった。

鏡の中には、部屋の壁と、天井の電球だけがあった。私が立っているはずの場所に、何もなかった。

恐怖は、なかった。

不思議なことに、何も感じなかった。ただ、鏡の表面が少しだけ曇っているような気がした。吐息がかかったように。

今夜も、出汁の香りがする。

路地の方から。

私は上着を羽織って、玄関のドアを開けた。


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