デパート地下の食品売り場で、閉店後に聞こえたレジの音
2026年12月06日
知人が話していた。去年の秋のことだ。
知人は大阪市の北区、梅田のオフィスで働いている。三十二歳、独身。残業は日常で、月末の締めの時期ともなれば、夜十時を回るのは当たり前だった。
そのデパートは、オフィスの地下と直結している。地下には食品売り場があり、惣菜や弁当、お惣菜の棚がずらりと並んでいる。夜九時まで。知人はよく、夜八時五十分頃に地下に降りて、お弁当を一つ買っていた。閉店五分前だが、値引きシールが貼ってあるから安い。
知人はそれを「夜のボーナス」と呼んでいた。
九月のある水曜日のことだ。知人は午後十一時頃まで残業していた。会議が長引き、資料を直して、退勤したのはもう十時を回っていた。地下鉄の終電も過ぎている。タクシーで帰るしかない。
「地下で弁当でも買って帰ろう」
知人は地下に降りた。エスカレーターは止まっている。階段を降りて、食品売り場の入口へ向かった。
自動ドアが開く。中の照明は半分しかついていなかった。半分消えた蛍光灯が、残った半分をより白く、より冷たく見せている。棚はすでに整理され、床には散らばった商品のカートンがいくつか転がっている。
奥の方で、誰かが動いている音がした。
知人は気づかなかった。いつもの閉店前の片付けだろうと思った。
レジへ向かった。一階建てのレジが三つ並んでいる。一番右のレジに、店員が一人立っていた。背の高い男性で、マスクをしている。知人が近づくと、軽く会釈をした。
「お弁当一つ」
知人がカゴをレジに置くと、店員はそれを開けて、一つずつスキャンしていく。ビープ。ビープ。ビープ。
「合計、八百五十円です」
知人はSuicaでタッチした。ピッ、と音を立てて、画面に「icoca」のロゴが点いた。
「ありがとうございます」
店員が言った。その声は、妙に平板だった。機械的に、リズムよく。
知人はカゴを持って、出口へ歩いた。自動ドアが開く。階段へ向かった。
その時だった。
背後から、ビープ、ビープ、ビープ、という音が聞こえてきた。
レジの音だ。
知人は振り返った。食品売り場の入口は、もう暗い。自動ドアは閉まっている。しかし、その向こうから、明かりが漏れている。半分消えた蛍光灯の、残った半分が白く光っている。
そして、声が聞こえた。
「八百五十円です」
知人の声にそっくりな、平板な声が、食品売り場の奥から聞こえてきた。
知人は足がすくんだ。自分の声だ。自分がレジで言ったセリフを、誰かがコピーしている。
「八百五十円です」
また言った。同じリズムで、同じ間隔で。
知人は走った。階段を二段飛ばしで駆け上がり、改札へ向かった。振り返らない。背後から、ビープ、ビープ、ビープという音が、ずっと続いているように感じた。
次の日、知人は休んだ。そして、そのデパートの食品売り場に、昼間行った。
店員に尋ねた。「昨日の夜、レジのあたりに誰かいましたか?」
店員は首を傾げた。「昨日は定員が通常通りでした。レジの音も、お客さんの声も、何も……」
知人は言った。「でも、昨日の夜、私がお弁当を買った時、レジで『八百五十円です』って言ったんですよ。それが、閉店した後、また聞こえたんです」
店員は少し黙って、言った。
「昨日の夜、レジは三つとも、九時半で閉めました。お客さんがいたのは、それまでです」
知人は背筋が凍るのを感じた。
九時半。自分がレジで精算したのは、十時を回っていた。
その時、知人のスマホが振動した。ラインの通知だ。知らない番号からだった。
メッセージには、こう書かれていた。
「八百五十円です」