デパートの試着室の鏡が、僕より先に笑っていた
2026年09月15日
去年の冬、渋谷のデパートでジャケットを試着していた時のことだ。
六階の服飾フロア、試着室は三つしかないのに客が五人並んでいる。そのうち二人は私用で、残り三人が私と同じようにジャケットを試着中だった。
僕は二つ目の試着室に入った。鏡の前に立つと、そこには僕そっくりの男がいた。サイズLのネイビーのジャケットを着て、少し首をかしげている僕自身だ。
「まあ、まあ」
僕は鏡の中の僕に言った。着丈が気になっているので、腕を上げてみる。镜の中の僕も同じ動作をする。当然だ。
三つ目の試着室から、別の男の声が聞こえた。
「あー、これちょっと緩いかな」
二つ目の試着室から出て、一つ目と四つ目(奥の壁に付けられた小さな鏡)を見比べようとしたその時だった。
鏡の中の僕が、笑っていた。
僕はまだ笑っていない。口を閉じて、少し眉をひそめた表情だった。なのに鏡の中の僕は、大きく口を開けて笑っていた。
僕は振り返った。一つ目の試着室の扉は閉まっている。四つ目の小さな鏡には、僕の後ろ姿が写っている。誰もいない。
戻って鏡を見ると、笑っていた镜の中の僕の表情が、今度は無表情に戻っていた。
「……変わった鏡だね」
そう呟いて、ジャケットを脱いで試着室を出た。レジに行くと、店員が言った。
「その試着室、今 maintenance 中でして。鏡、一部剥がれちゃってて」
「剥がれて?」
「ええ。鏡の裏側が浮いちゃってて、反射が歪んでるんですよ。もう直しますね」
歪みだ。そう思おうとした。
でも、違う。
鏡の中の僕は、笑っていた。歪みでは説明できないほどの、明確な笑みだった。
その夜、僕は眠れなかった。鏡の中の僕の表情が、脳裏に焼き付いて離れない。
そして昨日、同じデパートにまた行ってみた。六階の服飾フロア。試着室は四つに増え、鏡も全て新品に変わっていた。
二つ目の試着室に入った。鏡の前に立つ。
鏡の中の僕は、何も表情を変えていない。普通の反射だ。
でも、镜の隅に、小さなひびが入っていた。
そのひびが、先日の僕らの笑みの形にそっくりだった。