知人の女性(28歳、地方都市の会社員)から聞いた話だ。

土曜日の夕方、デパート地下の食品売り場のこと。閉店まで30分を切った頃、知人は食料品を買い回ろうと地下に降りていた。

その時、目に入ったのが試食ブースだった。

「冷製きゅうり・お試しいただけます」

そう書かれた小さな立て札の前で、一人の女性が立っていた。50代くらいか。紺色のエプロンに、白髪を後ろでまとめている。彼女は小さな紙皿に盛ったきゅうりを、客に差し出している。

知人が「いただきます」と手を伸ばそうとした瞬間、ふと違和感を覚えた。

その女性、全く動いていないのだ。

お皿を差し出す手、微笑む口元、前を向いた目。すべてが完全に静止している。まるで映像が止まっているように。

知人が目をこすり、もう一度見ると、女性はまた同じポーズできゅうりを差し出していた。

「次のお客様、いかがですか」

声は機械的だった。低く、一定の間隔で、同じトーンで。

周りに客は誰もいない。土曜日の夜、閉店間際のデパート地下に、なぜか一人の試食係だけが立っている。

知人はお皿を手に取り、その場を離れようとした。その時、お皿の中身を見て、背筋が凍った。

きゅうりは黒ずみ、表面に白いカビが生えていた。なのに女性は微笑み続ける。

「次のお客様、いかがですか」

同じ間隔で、同じ声で。

知人はお皿を置こうとしたが、女性の目が知人を見つめていた。微笑みは消えていなかった。

知人はお皿をそのまま手に持ち、その場を離れた。

エスカレーターを上がり、デパートの入口を出ようとしたとき、知人はふと地下の方を振り返った。

エスカレーターからの眺めでは、試食ブースがはっきりと見えた。

女性は相変わらず同じポーズできゅうりを差し出している。

しかし、その向こう側、通路の反対側にもう一人の女性が立っていた。同じ紺色のエプロン、同じ白髪、同じ微笑み。

二人の女性が同時に口を開いた。

「次のお客様」

声は完全に同期していた。

知人は走ってデパートを後にした。それ以来、そのデパート地下には行っていないという。

試食ブースの挿絵