玄関のカメラに、住んでいない家族が写っていた
2026年09月17日
隣人が引っ越して空室になった部屋がある。
僕が一人暮らしをしているマンションの3階だ。向かいの304号室が半年前に空いてから、大家さんがリフォーム中のまま放置されていた。足場が組まれたり、足音が聞こえたりと、工事の気配はあったものの、いつまで経っても入居者の連絡はない。
「もうすぐ完成するんだよね」
そう言い聞かせるように、僕は毎晩、玄関に設置したスマートドアホンで外を確認していた。
このドアホンアプリの機能はシンプルだ。玄関前に誰かが来るとスマホに通知が来て、カメラの映像をリアルタイムで見られる。さらに、録画機能がついていて、玄関前で何が起こったか後から遡って確認できる。
ある深夜、通知が来た。
玄関の動きを検知しました
夜中2時すぎ。僕が一人で住んでいる部屋に、誰かが来るわけがない。
スマホの画面を覗き込むと、玄関のカメラが捉えた映像が流れていた。暗い廊下。センサーライトがぼんやりと点いている。誰かいる気配はない。
「また誤動作か」
そう思い、録画データを遡って確認しようとしたら、引っかかった。
15分前、夜中1時47分。
画面に写っていたのは、廊下のカメラアングルだった。センサーライトが点き、人影が映る。
向かいの304号室のドアが開き、誰かが出てきたのだ。
裸足で、白いパジャマのようなものを着ている。髪は長く、顔はカメラの画角に含まれていない。その人物が、僕の部屋の前の廊下を、ゆっくりと歩き回る。
左に、右に。
まるで、どこかを探しているように。
僕は息を止めた。スマホの画面から目を離せなかった。
その人物が、僕の部屋のドアの前に立ち止まった。
カメラの画角にはドア自体は写っていない。しかし、その人物が、僕がいる方向を向いて、ずっと立っていたのがわかった。
30秒ほど経って、その人物はゆっくりと振り返り、304号室に戻っていった。ドアが閉まる音さえ、ドアホンのマイクを通じて聞こえた。
「……大家さんの工事関係者か」
そう自分に言い聞かせた。しかし、工事の人は夜中2時に裸足で出てこない。パジャマを着た一般人が、夜中に他の部屋の前に立って、ドアの前に立ち尽くすこともない。
翌日、大家さんに連絡した。
「304号室の件ですが、もう完成したのでしょうか?昨夜、不審者が出入りしていたようです」
大家さんは一瞬沈黙して、小さく息を呑んだようだった。
「……304号室は、まだ入居者决定していませんよ」
「でも、昨夜、誰かが出てきていました」
「……」
さらに沈黙が広がった。
「もしかして、その映像、まだ残っていますか?」
大家さんの声が、なぜか震えていた。
「残っています」
「……消してください」
「え?」
「あの映像は、絶対に消してください。そして、二度と見ないでください」
「……何が見えたんですか?」
大家さんは長く息を吐いた。
「304号室に入居していたのは、老夫婦でした。去年の冬、おばあさんが亡くなって。おじいさんが看取りました」
「……」
「おじいさんも、その数週間後に亡くなりました。二人とも、家族はいなくて。遺品整理をしていたら、おばあさんの日記が見つかったんです」
「日記に、何が書いてあったんですか」
「『私が死んだ後、彼が私を見るようになる。ドアの隙間から、廊下から、彼が私を見る。そして、私を探し始める』って」
大家さんは声を潜めた。
「おじいさんが亡くなった後、304号室に不審な動きが報告されるようになったんです。夜中にドアが開く音。廊下を歩く足音。大家の人間が確認に行っても、誰もいない」
「でも、カメラには——」
「映像に残るんです。誰かが、廊下を歩き回っている」
「……」
「304号室は空室のままです。入居者なんて、一人もいません。あなたが見たのは、——」
電話の向こうで、大家さんは言葉を濁した。
「——何か、違うかもしれませんよ」
その夜、僕はドアホンアプリを確認した。
新しい録画データが追加されていた。
夜中2時すぎ。
カメラの映像には、廊下が写っていた。センサーライトが点き、304号室のドアが開く。
その人物が出てきた。
白いパジャマ。長い髪。
そして、ゆっくりと僕の部屋のドアの方を向く。
画面の隅に、小さく、顔が映り込んだ。
青白くて、目が開いていて、口がゆっくりと開く。
「——いた」
その声は、スマホのスピーカーから、かすかに漏れていた。
僕はスマホを放り投げた。
次の日、僕は引っ越すことにした。
その夜も、ドアホンアプリに通知が来ていた。
玄関の動きを検知しました
確認しなかった。
しかし、録画データには、毎晩、新しい映像が追加されていく。
304号室から出てきた人物が、僕がいた部屋の前に立っている映像が。
そして今、この文章を書いている僕の背後から、かすかに、裸足で床を歩く音が聞こえる。