教習所の夜練習

教習所の夜景

知人が話していたことがある。

大学三年の夏、運転免許を取るために自動車教習所に通い始めた。学科も実技も順調に進み、もう技能指導教習の段階に入っていた。ある金曜日の夜、教習所が特別夜間練習を開くと知人が連絡を入れてきた。

「夜に練習すると、日中とは全然違うんだよ。教習生の叔父が言ってたんだけど」

知人は興味本位で夜間練習に行くことにした。予約は取っていなかったが、教習所のスタッフの一人が「まあ、いいだろう」と言って、教習生用の車を出してくれた。

夜九時過ぎ。教習所はすでに暗くなり、街灯が数基点いているだけの広大な駐車場が練習場になっている。知人は教習生用のコンパクトカーに乗り込み、エンジンをかけた。

「まずはバックで駐車」。

サイドミラーを確認し、バックミラーを見る。特に問題はない。知人はゆっくりとバックを始めた。教習所なので、コースに従って決められた動きをする。

三回目のバックのとき、知人は何かにお気づきになった。

バックミラーに、教習車の後ろに立つ人影が映っていることに。

知人は驚いた。教習所はすでに閉まっており、誰もいないはずだ。しかし、バックミラーには確かに人影が写っている。白衣を着た人物が、教習車の後方三メートルほど離れた位置に立っている。

「もしかしてスタッフの方?」

知人は窓を開けようとしたが、手が止まった。窓の外は凍るように冷たい。窓を開ける勇気がなかった。

知人はバックミラーを凝視した。人影は動かない。ただ、立っているだけだ。しかし、よく見ると、人影の足元が地面についていないように見えた。浮いている。

知人は慌ててフロントガラスのミラーにも目をやった。何も写っていない。バックミラーだけを凝視している。

「おかしいな」。

知人はバックを止め、ニュートラルに入れてブレーキを踏んだ。エンジンは回り続けている。知人は深呼吸をし、バックミラーをもう一度見た。

人影はいなかった。

「あー、見間違えた」。

知人はほっとしたが、その瞬間、バックミラーに再び人影が現れた。今度は、教習車の直後に立っている。顔がミラーに映るほど近づいている。

知人は後部座席を振り返った。誰もいない。

「誰かいますか?」

声はかすれた。知人は自分の声に驚いた。

返事はない。

知人はフロントミラーを見た。何も写っていない。バックミラーを見た。人影はまた消えている。

知人はエンジンキーを回し、エンジンを切った。

その瞬間、バックミラーに息のかすぶりが映った。

バックミラーの表面に、曇りとして現れた息のかす。それは、バックミラーの内側に付着していた。つまり、バックミラーの裏側――後部座席のどこかに、息を吹きかけるほどの近さで誰かがいることを意味する。

知人は後部座席を見た。誰もいない。しかし、バックミラーの曇りは消えない。

知人はドアを開け、車から降りた。

夜風が知人を包んだ。教習所の駐車場は完全に静かだ。街灯の明かりが、アスファルトに黄色い四角い影を落としている。

知人は教習車の後方を見た。誰もいない。

しかし、知人は気づいた。バックミラーの曇りは、今も消えていないことを。

後部座席に誰かが座っていたわけではない。バックミラーの内側に息が曇ったということは――

知人は振り返った。

教習車の後方、アスファルトに、水滴が並んでいる。

水滴は、教習車の後部バンパーから、教習所のフェンスまで一直線に続いている。水滴の直径は、人間が歩いたときに残す足跡の位置と完全に一致している。

しかし、その足跡は、教習車の後方からフェンスの方へ向かっている。

つまり、誰かが教習車の後ろから、フェンスの方へ歩いて行った。

知人は慌てて教習車のドアを閉め、エンジンをかけた。そのまま教習所から逃げ出した。

知人は二度と夜間練習に行かなかった。


知人はその後、その教習所を辞め、別の教習所に通い直した。理由を尋ねても、知人は「あの教習所の夜は、二度と体験したくない」とだけ答え、それ以上は話さなかった。