試着室の鏡

これは自分の話だ。去年の十月のこと。

私は都内のIT企業でエンジニアとして働いている。残業は日常茶飯事で、その晩も二十時を回してから帰宅した。地下鉄の終電を逃したので、自家用車の家族用車を運転する妻に拾ってもらう約束をしていたが、連絡が通じなかった。仕方がないので、最寄りの駅まで歩いて帰ることにした。

二十三分間。

道中、いつもは閉まっている二十四時間ドラッグストアが営業していた。夜中でも眠れない時用の睡眠薬や、胃薬、頭痛薬を扱っているので、夜中の患者さんにとっては命綱のような店だ。私はふと、明日の備えに整腸剤でも買おうと思って入った。

店内は自動ドアのチャイムとともに明るくなった。深夜にもかかわらず、照明は昼間と変わらぬ明るさ。陳列棚の奥から店員が数人、棚卸しのような作業をしていた。私がレジに並んでいる間、背後の棚から「あ、すみません」という声が聞こえた。振り向くと、四十代くらいの男性店員が、棚の奥に置かれた段ボール箱を運んでいるところだった。

「すみません、奥の試着室の鍵、かかってるんですか?」

「ああ、はい。あそこ、倉庫として使ってるんで」

店員は笑って答えた。試着室? 私はその言葉がどこかで耳にした記憶があることに気づいた。そう、このドラッグストアには、服を試着できる小さな部屋があった。

入ってすぐの右手に、白化粧板でできた小さな個室が三つ並んでいた。それぞれの扉には「試着室」「更衣室」と書かれている。かつてはファッション雑貨を売っていた頃の名残だろう。今は倉庫として使われているのだと、店員は言っていた。

整腸剤をレジに置いて、私は店を出ようとした。その時、ふと背後の試着室の扉が、ゆっくりと開く音が聞こえた。

チャキッ、と。

自動ドアのチャイムとは違う、機械的な鍵の音だ。店員は奥の棚の隅で箱を整理していた。他の店員も誰もいない。

「……誰か?」

私が声をかけた時には、扉はすでに閉まっていた。閉まっていた、というか、私が振り返った時には、もう閉まっていた。

家に着いて、妻にそのことを話したら、笑って「深夜の店だし、店員が片付けしてるだけだよ」と言った。その時は納得した。

次の日の夜、またそのドラッグストアの前を通りかかった。たまたまだった。試しに店内を覗いてみると、試着室の扉が、ほんの少し開いていた。

私は中を覗き込んだ。

試着室は狭い。鏡が一面に貼られている。床には服を掛けられたフックが三つ。棚には段ボール箱が数個置かれている。そして、鏡。

その鏡が、濡れていた。

鏡の表面に、水滴がいくつも付いている。指でなぞったような、線状の跡も残っている。深夜の店。空調は付いているはずだ。湿度が這麼.highになる理由がない。

私はすぐに出た。

そして先週、またそのドラッグストアの前を通りかかった。たまたまだった。試着室の扉は閉まっていた。鏡には、水滴は付いていなかった。

付いていなかった、と、私は信じている。

でも、鏡の表面に、小さな指紋がいくつも残っていることに、今気づいた。