深夜のエレベーターが、存在しない階で停止し始めた話
2026年09月04日
僕が住んでいるマンションは、東京・中野区の築二十年の一三七戸。十階建てで、エレベーターが一台、非常階段が二つある。
僕は二階に住んでいる。夜中に出かける用事ができたのは、三ヶ月前のことで、友人と飲みに行ったあと、終電を逃してタクシーを呼んだ。
でも、タクシーが来ない。アプリの表示では、運転手が「三十分ほどお待ちください」と返してきた。
仕方ないので、エントランスのベンチで待っていた。
その時、エレベーターのベルが鳴った。
深夜の二時半。エレベーターが動くことは、ほとんどない。
ドアが開く。中に誰もいない。点灯したフロア表示は、一階だった。
「……」
僕はエレベーターに乗った。二階を押して。
エレベーターが動き出した。一階から二階へ。
でも、表示が止まらない。
三階。四階。五階。
僕がいるのは二階だ。エレベーターは、二階を通過したはずだ。
「おかしいな」
僕は再入力ボタンを押そうとした。その時、エレベーターが停止した。
表示には、「七階」と出ている。
七階。僕が住んでいるのは二階。七階には、何があるのか知らない。住んでいる人がいるのかさえ、知らない。
ドアが開いた。
廊下が、見えた。
明るかった。普通の廊下。天井の蛍光灯が点いていて、床はタイル張り。壁には掲示板があり、宅配ボックスが並んでいる。
でも、誰もいない。
エレベーターのベルが鳴った。「ピー、ピー、ピー」。ドアが閉まる合図だ。
僕はエレベーターに戻った。三階を押した。
でも、表示は七階のまま。
「七階、七階……」
表示が、七階のまま点滅を始めた。
その時、エレベーターの隅に設置された小さな鏡に、何か映った。
廊下の人。
七階の廊下に、人が立っていた。白衣を着た人物が、エレベーターの方をじっと見つめている。
でも、七階には誰も住んでいない。住んでいる人がいるのか、僕は知らない。
エレベーターが、ゆっくりと動き出した。
表示が、七階から一階へ、戻り始めた。
三階で止まった。僕がいる階だ。
でも、ドアが開かない。
「開いて」
再入力ボタンを連打した。
その時、エレベーターのスピーカーから、かすかな声が聞こえた。
「……階、違いますよ」
男の声。冷静で、どこか冷たい。
僕はエレベーターの中を見回した。誰もいない。
「誰? 誰が話してるの?」
返事はない。
その時、ドアが開いた。二階の廊下が、見えた。
僕は飛び出して、エレベーターから逃げ出した。
その後、エレベーターのボタンが、ずっと点灯し続けた。七階のボタンだけ。
翌日、管理人に聞いた。
「七階って、どうなってるんですか?」
管理人は、不思議そうな顔をした。
「七階? この建物に七階なんて、ありませんよ」
「え、でも、昨日、エレベーターが七階で止まって……」
管理人は、黙って、しばらく考えてから、小さく言った。
「この建物は、もともと十一階建ての計画だったんです。でも、途中で計画が変更されて、十階建てで竣工した。七階の分は、床だけ作って、あとはコンクリートで埋めてある」
「……七階の床が、残ってるんですか?」
「ええ。エレベーターシャフトの中に、七階の床が、そのまま残ってるんです。でも、エレベーターは七階には止まりません。ボタンもない」
「でも、昨日、七階のボタンが点灯して……」
管理人は、黙って、エレベーターの前まで歩いていった。
ボタンを確認した。
七階のボタンはない。
「……昨日、七階のボタンが点灯していましたよ」
管理人は、黙って、エレベーターの点検口を開けた。
奥には、ケーブルと、モーターが見えた。
そして、その奥に、コンクリートの壁。
七階の床が、残されていた。
管理人は、点検口を閉めた。
「もう、大丈夫だと思いますよ」
でも、僕は知っている。
七階のボタンが、いつかまた点灯するだろうということ。
そして、その時、エレベーターの鏡に、白衣の人物が、また映るだろうということ。
昨夜、僕はエントランスを通りかかった。
エレベーターのベルが、鳴った。
ドアが開く。中に誰もいない。
点灯したフロア表示は、七階だった。