非常放送

去年の冬、俺は東京・世田谷の古いマンションに一人暮らしをしている。築四十年、エレベーターはたまにしか動く、廊下の蛍光灯は三つに一つしかつかない、そんな物件だ。

ある日、深夜二時頃だったと思う。たまたま寝付けないで本を読んでいたところに、突然非常放送が鳴り始めた。

「ただいまから緊急放送をお送りします。現在、館内で異常が確認されました。各位は室内から出ないでください。もう一度繰り返します。各位は室内から出ないでください。館内で異常が確認されました。」

管理人さんが話すような、低い声の放送だった。スピーカーは各室の壁についていて、古いマンションなので音が直接響く。

「館内で異常」って何さ、と思いながら、俺は本を読み返した。非常放送なんて滅多に来ない。地震か火事か、そんなもんか。

しかし、放送は止まらなかった。

「各位は室内から出ないでください。もう一度繰り返します。各位は室内から出ないでください。館内で異常が確認されました。各位は室内から出ないでください。館内で異常が確認されました。各位は室内から出ないでください。館内で異常が確認されました。各位は室内から出ないでください。館内で異常が確認されました。各位は室内から出ないでください。館内で異常が確認されました。」

同じ文章が、間隔をあけずに、延々と繰り返される。

おかしい。通常の非常放送なら、三回か四回繰り返せば終わるはずだ。しかし、これは止まらない。三十秒、一分、二分。同じ文章が同じテンポで流れる。

俺はインターホンのモニターを確認した。管理人さんが来ているのか、それとも異常を調査に来たのか。

モニターには、廊下の映像が映っていた。

蛍光灯がチカチカしている。廊下の先には、誰か立っている。

しかし、その人物の顔が映らない。カメラの画角には足元しか入らず、顔の位置は常にフレーム外だった。それでも、その人物はじっと俺の部屋のドアの前に立っていた。

そして、非常放送が止まった。

静寂。

インターホンのモニターを見ていると、その人物がゆっくりと上を向いた。カメラの画角に顔が入ってきた。

その顔は、俺だった。

モニターに映る自分の顔が、ゆっくりと口を開ける。そして、非常放送が再び始まった。

「ただいまから緊急放送をお送りします。現在、館内で異常が確認されました。各位は室内から出ないでください。もう一度繰り返します。各位は室内から出ないでください。館内で異常が確認されました。」

声は、俺の声だった。

俺はインターホンのモニターを見つめながら、自分から声が漏れ出しているのに気づいた。口を開けていないのに、自分の声がスピーカーから流れている。

モニターの中の「俺」が、ゆっくりと微笑んだ。

それ以来、そのマンションには一年以上住んでいない。引っ越し先でも、たまに深夜に非常放送の音が聞こえることがある。

それは、俺の声かもしれない。