冷蔵庫のメモ
2026年10月05日
冷蔵庫のメモ
去年の冬、僕は一人暮らしを始めた。
都心から30分ほど电鉄で下った、静かな住宅地の一軒家だった。物件は中古で、前の入居者が「急に引っ越した」という理由で非常に安かった。大家さんは「トラブルなんかじゃないよ。単に転勤だって」と笑って見せたが、何かを感じ取ったのは僕の方だった。
転居してから一ヶ月ほど経った12月の某日、僕は残業で深夜の帰宅となった。
階段を上がると、玄関のドアがわずかに開いている。
「また入れ忘れか」と思い、鍵を掛けて中に入った。部屋はいつも通り。照明は消えている。静かすぎる。
キッチンに立ち、冷蔵庫を開けた。
その時だった。
冷蔵庫の棚の一番上、野菜室の隣に、白い付箋が貼ってあるのに気づいた。
付箋には、自分の字でこう書かれていた。
温めてね。中身腐るから。
僕は立ち尽くした。
自分の字だ。間違いない。字の癖、角度、漢字の書き方——すべて自分が書く時と同じだった。
でも、誰が貼ったのか。
部屋には誰もいなかった。玄関の鍵は掛かっていた。窓も閉まっている。
「誰かの悪戯かな」と、僕は付箋を剥がしてゴミ箱に捨てた。冷蔵庫の中には、牛乳と卵、半分の人参——明日の朝食用に仕えておいた夕食が入っていた。
その日以来、付箋は現れなくなった。
僕は安心して生活に戻った。
が、一週間後、また現れた。
今度は冷蔵庫の扉の裏側。磁石で留められたメモ用紙に、また自分の字で。
明日、忘れるよ。先に食べて。
僕はもう一度、破った。
そして三日后、今度は付箋ではなく、手紙だった。
白い便箋に、また自分の字で、長文が書かれていた。
今日から3日、外に出てないね。大丈夫?食事は?僕はいつも冷蔵庫の中にいるから、見えるよ。窓から。
冷蔵庫の野菜室のガラス棚を覗くと、その向こうに、白い光がうっすらと見える。
おかしい。野菜室には照明しかない。
でも、その光は、人の目だった。
野菜室の奥、カブとレタスの間から、白い瞳孔がこちらを覗いている。
僕は後ずさりし、冷蔵庫の扉を閉めた。
その瞬間、冷蔵庫の中から、低い声がした。
開けないで。僕は、外に出たくなかった。
それ以来、僕は冷蔵庫を開けなくなった。
でも、毎朝、扉の隙間から、白い付箋が一枚、床に落ちている。
温めてね。
温めてね。
温めてね。
この話、知人から聞きました。今はその部屋に誰も住んでいないそうです。大家さんも「前の入居者が、また戻ってくるかもしれない」と言って、物件を空けておくと答えたとのことです。