空き部屋の日記
2026年03月21日
不動産会社でのアルバイトを始めて、三ヶ月が経った頃の話だ。
業務はおもに物件の清掃と書類整理で、特に変わったことはなかった。でもある日、上司から妙な仕事を頼まれた。
「立川の物件、退去作業を頼めるか。入居者が二ヶ月前から連絡つかなくなってて」
失踪、ではないらしい。家賃が振り込まれなくなり、電話にも出なくなり、郵便受けが溢れ始めたので、管理会社が動いたのだという。警察には届け出ていた。でも、住民票の移動もなく、行方不明者届も受理されなかった。
「ただの夜逃げだろう。荷物は処分していいから」
翌日の午前中、私は一人でその部屋を訪れた。
三階建てマンションの、二〇二号室。玄関を開けると、淀んだ空気が顔にまとわりついた。埃の匂いと、かすかに何か甘いような、饐えたような匂い。
部屋の中は、ほぼ生活用品がそのまま残されていた。テーブルの上にコップ。シンクに洗いかけの食器。カレンダーは一月で止まっていた。
夜逃げにしては不自然だった。
急いで出て行ったとしても、こんな形では残さない。
誰かが、今もここにいるような気がした
段ボール箱に荷物を詰めながら、押し入れを開けた。
衣類。本。古い雑誌。奥の方に、小さなカゴが押し込まれていた。
手を伸ばして引っ張り出すと、中に薄いノートが一冊入っていた。
表紙には何も書かれていなかった。
立てかけて、そのまま箱に入れようとした。
でも、表紙が開いてしまった。
最初の一行が目に入った。
「二月十四日。また同じ夢を見た」
読むつもりはなかった。
でも、手が止まった。
入居者が姿を消した理由が、ここに書かれているかもしれない。何か事件に巻き込まれていたのなら、放っておくわけにはいかない。そう自分に言い聞かせて、数ページめくった。
几帳面な、細い字だった。
「廊下に誰かが立っている夢。顔は見えない。でも、こちらを向いているのは分かる」
「鍵を確認した。全部閉まっていた。それなのになぜ、朝になるとチェーンが外れているのか」
「気のせいかもしれない。気のせいであってほしい」
日付を追うごとに、文字が乱れていった。筆圧が強くなり、一部は紙を引っかくように書かれていた。
途中から、内容が変わった。
「誰かが私の後をつけている気がする。証拠はない。でも確信がある」
「スーパーで、昨日と同じ男を見た。三日連続だ。偶然とは思えない」
「窓を閉め切っていても、外に気配がする。三階なのに」
ページが進むにつれ、文章は短くなった。箇条書きに近くなった。
「眠れない」
「ドアを開けられない」
「もうここには——」
文章の途中で、そのページは終わっていた。
最後のページの字は、震えていた
次のページに移った。
そこが、最後のページだった。
「三月二十一日。最後の記録」
今日の日付だった。
背筋が、冷えた。
「今日、誰かがこの部屋に来る。私の荷物を片付けるために」
読み続けた。止められなかった。
「背が高い人だ。黒っぽい服を着ている」
私は黒いジャケットを着ていた。
「今、この日記を読んでいる」
ノートが手の中で震えた。いや、震えているのは私の手だった。
「あなたのことは、ずっと前から知っていた」
どういう意味だ。
どうやってこんなことが書ける。
この日記は、二ヶ月前から押し入れの奥に眠っていたはずだ。なのになぜ、今日の日付で、私のことが書かれているのか。
「逃げて。今すぐここから出て」
次の行は、走り書きだった。
「もうそこに——」
文章はそこで途切れていた。
その後に続くはずの言葉が、どこにも書かれていなかった。
押し入れの奥から、音がした。
衣擦れのような、小さな音だ。
私は振り返った。
押し入れは、閉まっていた。私が閉めた記憶はなかった。
引き戸に手をかけた。
冷たかった。
春なのに、扉の表面が、ひんやりと湿っていた。
隙間の奥に、何かがある気がした
引き戸を引いた。
押し入れの中には、誰もいなかった。
衣類が詰まったままで、奥には段ボールが重なっていた。
ただ、一番奥の壁に、何かが引っかかれていた。
爪で引っかいたような、細い線の集まり。
よく見ると、それは文字だった。
「まだここにいる」
私はノートを持ったまま、部屋を飛び出した。
マンションの外に出て、初めて深呼吸した。
明るい昼間の街が、何事もなく流れていた。
上司に電話して、事情を話した。ノートは警察に届けた。
担当者は話を聞いてくれたが、半信半疑の様子だった。「日付が一致しているのは偶然では」と言った。「書いた本人が、清掃業者が来る日を把握していた可能性もある」と言った。
それはそうかもしれない。
でも一つだけ、説明がつかないことがある。
私がその物件を担当したのは、前日の夕方に急遽決まったことだった。
元々の担当者が体調を崩して、急きょ私が代わりに回されたのだ。
あの入居者は、どうやって今日、私が来ることを知っていたのか。
どうやって私が背が高いことを知っていたのか。
どうやって私が黒いジャケットを着てくることを知っていたのか。
答えは、まだ出ていない。
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