不動産会社でのアルバイトを始めて、三ヶ月が経った頃の話だ。

業務はおもに物件の清掃と書類整理で、特に変わったことはなかった。でもある日、上司から妙な仕事を頼まれた。

「立川の物件、退去作業を頼めるか。入居者が二ヶ月前から連絡つかなくなってて」

失踪、ではないらしい。家賃が振り込まれなくなり、電話にも出なくなり、郵便受けが溢れ始めたので、管理会社が動いたのだという。警察には届け出ていた。でも、住民票の移動もなく、行方不明者届も受理されなかった。

「ただの夜逃げだろう。荷物は処分していいから」


翌日の午前中、私は一人でその部屋を訪れた。

三階建てマンションの、二〇二号室。玄関を開けると、淀んだ空気が顔にまとわりついた。埃の匂いと、かすかに何か甘いような、饐えたような匂い。

部屋の中は、ほぼ生活用品がそのまま残されていた。テーブルの上にコップ。シンクに洗いかけの食器。カレンダーは一月で止まっていた。

夜逃げにしては不自然だった。

急いで出て行ったとしても、こんな形では残さない。

殺風景な空き部屋、窓の外に何かの影

誰かが、今もここにいるような気がした


段ボール箱に荷物を詰めながら、押し入れを開けた。

衣類。本。古い雑誌。奥の方に、小さなカゴが押し込まれていた。

手を伸ばして引っ張り出すと、中に薄いノートが一冊入っていた。

表紙には何も書かれていなかった。

立てかけて、そのまま箱に入れようとした。

でも、表紙が開いてしまった。


最初の一行が目に入った。

「二月十四日。また同じ夢を見た」


読むつもりはなかった。

でも、手が止まった。

入居者が姿を消した理由が、ここに書かれているかもしれない。何か事件に巻き込まれていたのなら、放っておくわけにはいかない。そう自分に言い聞かせて、数ページめくった。

几帳面な、細い字だった。

「廊下に誰かが立っている夢。顔は見えない。でも、こちらを向いているのは分かる」

「鍵を確認した。全部閉まっていた。それなのになぜ、朝になるとチェーンが外れているのか」

「気のせいかもしれない。気のせいであってほしい」

日付を追うごとに、文字が乱れていった。筆圧が強くなり、一部は紙を引っかくように書かれていた。


途中から、内容が変わった。

「誰かが私の後をつけている気がする。証拠はない。でも確信がある」

「スーパーで、昨日と同じ男を見た。三日連続だ。偶然とは思えない」

「窓を閉め切っていても、外に気配がする。三階なのに」

ページが進むにつれ、文章は短くなった。箇条書きに近くなった。

「眠れない」

「ドアを開けられない」

「もうここには——」

文章の途中で、そのページは終わっていた。

開かれた日記、最後のページの乱れた文字

最後のページの字は、震えていた


次のページに移った。

そこが、最後のページだった。

「三月二十一日。最後の記録」

今日の日付だった。


背筋が、冷えた。

「今日、誰かがこの部屋に来る。私の荷物を片付けるために」

読み続けた。止められなかった。

「背が高い人だ。黒っぽい服を着ている」

私は黒いジャケットを着ていた。

「今、この日記を読んでいる」

ノートが手の中で震えた。いや、震えているのは私の手だった。

「あなたのことは、ずっと前から知っていた」

どういう意味だ。

どうやってこんなことが書ける。

この日記は、二ヶ月前から押し入れの奥に眠っていたはずだ。なのになぜ、今日の日付で、私のことが書かれているのか。


「逃げて。今すぐここから出て」

次の行は、走り書きだった。

「もうそこに——」

文章はそこで途切れていた。

その後に続くはずの言葉が、どこにも書かれていなかった。


押し入れの奥から、音がした。

衣擦れのような、小さな音だ。

私は振り返った。

押し入れは、閉まっていた。私が閉めた記憶はなかった。

引き戸に手をかけた。

冷たかった。

春なのに、扉の表面が、ひんやりと湿っていた。

薄暗い押し入れ、わずかに開いた扉の隙間

隙間の奥に、何かがある気がした


引き戸を引いた。

押し入れの中には、誰もいなかった。

衣類が詰まったままで、奥には段ボールが重なっていた。

ただ、一番奥の壁に、何かが引っかかれていた。

爪で引っかいたような、細い線の集まり。

よく見ると、それは文字だった。

「まだここにいる」


私はノートを持ったまま、部屋を飛び出した。

マンションの外に出て、初めて深呼吸した。

明るい昼間の街が、何事もなく流れていた。


上司に電話して、事情を話した。ノートは警察に届けた。

担当者は話を聞いてくれたが、半信半疑の様子だった。「日付が一致しているのは偶然では」と言った。「書いた本人が、清掃業者が来る日を把握していた可能性もある」と言った。

それはそうかもしれない。

でも一つだけ、説明がつかないことがある。

私がその物件を担当したのは、前日の夕方に急遽決まったことだった。

元々の担当者が体調を崩して、急きょ私が代わりに回されたのだ。


あの入居者は、どうやって今日、私が来ることを知っていたのか。

どうやって私が背が高いことを知っていたのか。

どうやって私が黒いジャケットを着てくることを知っていたのか。

答えは、まだ出ていない。


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