下宿の大家さんが夜中に私の部屋に入る理由
2026年11月29日
大学を卒業して地方の中小企業に新卒入社したとき、私は最初一人暮らしをした。
家賃三万五千円。駅まで徒歩十五分。周辺にコンビニもない。大家さんは六十代の男性で、妻と二人暮らし。猫を二匹飼っている。
入居初日の朝、大家さんが玄関先で言った。
「夜中、何かあったら言ってください。鍵、開けますから」
当時の私は「優しい大家さんだな」と思った。今思えば、あれは警告だったのかもしれない。
一週間目、夜中の二時ごろ、廊下に足音が聞こえた。
寝ぼけていた。そう思い、また寝た。
二日目も同じ時間。今度ははっきりと、私の部屋のドアノブが回るのが聞こえた。
鍵はかけていた。外から開けられる仕組みではなかった。それでも、ノブが数秒間、ゆっくりと回転した。
朝、大家さんに話したら、苦笑いして言った。
「猫が廊下を歩くんですね。古い建物だから、足音って響くんですよ」
猫がドアノブを回すわけがない。でも、それ以上追问することはしなかった。
三日目、夜中の三時。
また足音がする。今度は私の部屋のドアの前で、止まった。
息をする音も聞こえた。
私は布団の中で、動けなかった。スマホを持っていても、電話する勇気がなかった。
そして、ドアの隙間から、何かが覗いた。
暗闇の中で、白い目が、私の顔を覗き込んでいた。
叫びそうになった。でも、声が出なかった。
数秒後、足音が遠ざかった。
次の日、大家さんに会った。彼の猫は、いつも通りに私の足元をすり抜けていった。
「昨夜、何か聞こえましたか?」
と、尋ねてみた。
大家さんは、少しの間、黙っていた。そして言った。
「猫、二匹いるはずなのに、今朝、三匹の数え方をしてたんです」
私は、冷たい汗をかいた。
その日から、夜中にドアノブが回ることは、なくなった。
でも、今でも、夜中に誰かが私の部屋を覗いている気がする。
大家さんが、鍵を持っているから。