大家さんの鍵

大学を卒業して地方の中小企業に新卒入社したとき、私は最初一人暮らしをした。

家賃三万五千円。駅まで徒歩十五分。周辺にコンビニもない。大家さんは六十代の男性で、妻と二人暮らし。猫を二匹飼っている。

入居初日の朝、大家さんが玄関先で言った。

「夜中、何かあったら言ってください。鍵、開けますから」

当時の私は「優しい大家さんだな」と思った。今思えば、あれは警告だったのかもしれない。

一週間目、夜中の二時ごろ、廊下に足音が聞こえた。

寝ぼけていた。そう思い、また寝た。

二日目も同じ時間。今度ははっきりと、私の部屋のドアノブが回るのが聞こえた。

鍵はかけていた。外から開けられる仕組みではなかった。それでも、ノブが数秒間、ゆっくりと回転した。

朝、大家さんに話したら、苦笑いして言った。

「猫が廊下を歩くんですね。古い建物だから、足音って響くんですよ」

猫がドアノブを回すわけがない。でも、それ以上追问することはしなかった。

三日目、夜中の三時。

また足音がする。今度は私の部屋のドアの前で、止まった。

息をする音も聞こえた。

私は布団の中で、動けなかった。スマホを持っていても、電話する勇気がなかった。

そして、ドアの隙間から、何かが覗いた。

暗闇の中で、白い目が、私の顔を覗き込んでいた。

叫びそうになった。でも、声が出なかった。

数秒後、足音が遠ざかった。

次の日、大家さんに会った。彼の猫は、いつも通りに私の足元をすり抜けていった。

「昨夜、何か聞こえましたか?」

と、尋ねてみた。

大家さんは、少しの間、黙っていた。そして言った。

「猫、二匹いるはずなのに、今朝、三匹の数え方をしてたんです」

私は、冷たい汗をかいた。

その日から、夜中にドアノブが回ることは、なくなった。

でも、今でも、夜中に誰かが私の部屋を覗いている気がする。

大家さんが、鍵を持っているから。