ジムロッカーの奥から聞こえる息遣い
2026年08月14日
毎晩23時過ぎに帰ってくるのが、この一年半のルーティンだった。
会社員の高橋健太(仮名・28歳)が通うジムの営業時間は午前6時から深夜1時まで。彼が通い始めたのは、転職活動中のストレス発散を兼ねてのことだった。
「深夜ジムなら、帰りが遅くなっても大丈夫」
そう考えて入会したものの、思わぬ不都合に直面する。ロッカー室の個室が、深夜になるとなぜか一つずつ不用品で埋まっていくのだ。
「今日は3つ。昨日は2つ。明日も増えると思う」
フロントに聞けば「掃除のタイミングで片付けるので、気にしないで」という返事。高橋は仕方なく、空いているロッカーに自分の荷物をしまう。
ある深夜11時40分頃のこと。
高橋がシャワーを浴びてロッカーに戻ると、いつも使っているロッカーの鍵が、閉まっていた。
「え?」
鍵穴にキーを差し込む。正常に回る。開く。
中を見ると、自分のタオルがきちんと吊るしてある。でも、高橋はタオルを持ってきていない。
「誰かが……」
背筋が凍る。ロッカーの扉を閉めて、フロントに電話した。
「今、私のロッカーに誰かのタオルが置いてありました。心当たりはありますか?」
フロントの女性の声は平然としている。
「あー、深夜の掃除のおばちゃんが、間違えて入れることありますよ。明日確認しますから」
高橋は納得できずに、そのタオルをゴミ箱に捨てて、別のロッカーを使った。
翌日、フロントに確認を求めると、担当の掃除のおばちゃんは「そんなことしてません」と否定。
「じゃあ、誰が……」
高橋がそう聞く前に、フロントの女性が話を遮った。
「もしかして、隣のロッカーの人じゃないですか?鍵がかかってて、開けられなかったから……」
隣のロッカーには、別の会員が使っている。鍵がかかっているなら、中に入れるはずがない。
その夜、高橋はロッカーに鍵をかけたまま、中身を全部外に出して、自分の荷物はカバンに入れてジムを出ることにした。
翌週、また同じことが起きた。
今度はタオルではなく、高橋の予備の靴下がロッカーの中に入っていた。
高橋は怖くなって、ロッカーの内部を詳しく見た。
扉の内側、下部に、小さな隙間がある。
ロッカーの底と扉の間に、指一本分の隙間が。
そこを、指でなぞると、向こう側から、何かがゆっくりと戻ってきた。
冷たい。
高橋は手を引っ込めた。息遣いが、ロッカーの中から聞こえる。
「……誰もいないよ」
フロントに再度連絡した。今度は、掃除のおばさんの制服を着た女性が現れた。
「あのね、ロッカーの隙間、普通にあるのよ。換気のために」
「でも、さっき、中から声が——」
女性が静かに笑った。
「あなたのロッカー、今も開いてるよ」
高橋が振り向くと、自分のロッカーの扉が、半開きになっていた。
中を覗くと、靴下は元に戻って吊るしてある。
そして、靴下の間に、もう一つ、別の靴下が混ざっていた。
高橋の靴下と、全く同じ色・同じ型番の。
それ以来、高橋はジムに通わなくなった。
でも、退会手続きをした数日後、彼の自宅の玄関先に、白い靴下が一つ、置かれていた。
高橋の靴下と、全く同じ色の。