知人が話していた。彼が二十代の終わり、東京・大田区のマンションで一人暮らしをしていた頃の話だ。

彼がそのジムに通いはじめて三ヶ月目だった。月五千円で二十二時〜翌九時まで入れ込む、いわゆる深夜ジムの常連になっている。マシンはすべて自動で重さを選べるタイプで、店員がいないから、自分一人だけで片付けたあと、静まり返った空間を後にするのだ。

ある水曜日の深夜、彼はベンチプレスをしたあと、ミラーの前で胸のストレッチをしていた。ジムには一面、床から天井まで届くミラーが張ってある。深夜でも、蛍光灯の光がミラーに反射して、どこまでも奥が広がっていくような錯覚を覚える。

彼が腕を伸ばして背伸びをした。

その瞬間、ミラーの中の自分が、腕を伸ばしたまま、動かないことに気づいた。

一瞬、自分の動きが追いついていないのかと思った。彼は一度、目を閉じて大きく息を吐いた。開けてみると、ミラーの中の自分も、同じ姿勢のまま、何も変わらなかった。

「あれ?」

彼はゆっくりと、腕を下ろした。ミラーの中の自分も、それに合わせて腕を下ろした。

「ふーん、なんか遅れてるな」

そう笑って、彼はタオルを手に持ち、水筒に手を伸ばした。そのときだった。

ミラーの中の自分が、ゆっくりと、彼とは異なる動きをした。

彼が水筒に手を伸ばしたその瞬間、ミラーの中の自分は、水筒に触れもせず、ただ、彼を見つめていた。

彼の呼吸が止まる。ミラーの中の自分は、ゆっくりと口を開けた。

笑っている。

彼が後ずさりした。ミラーの中の自分も、後ずさりした。

でも、その笑顔は、消えなかった。

彼は走って出口に向かった。鍵を閉めて、冷たい夜風を浴びながら、振り返った。ジムの中は真っ暗だ。ミラーも、何も映っていなかった。

そのあと、彼は二度と、そのジムに行かなかった。

でも、たまに、夜中にふと、ミラーに映る自分の顔が、ほんの少し、自分とは違う表情をしているのではないかと、不安になることがあるそうだ。