それは、誰もが望む「幸せな結末」だった。

私は今、理想の人生を送っている。高校三年生の冬、絶望的だった受験に奇跡的に合格した。大学では憧れていた先輩と付き合うことができた。就職活動では第一志望の企業から内定をもらい、入社三年目で大きなプロジェクトのリーダーに抜擢された。

デスクで微笑む男性

明るいオフィス。完璧な環境。完璧な笑顔。何もかもが、理想通り。

昨年結婚した妻は美しく、優しく、料理が上手で、いつも私を支えてくれる。新居のマンションは駅から近く、日当たりも良い。給料は毎年上がり、貯金も順調に増えている。健康診断はオールA。友人関係も良好で、週末には必ず楽しい予定が入る。

完璧だ。

何もかもが完璧すぎる。

最初に違和感を覚えたのは、三ヶ月前のことだった。

プロジェクトで大きなミスをしてしまい、クライアントに謝罪に行く羽目になった。私は覚悟を決めて会議室に入った。しかし、なぜかクライアントは笑顔で私を迎え、「いえいえ、こちらこそ説明不足でした」と言って、逆に感謝された。

その帰り道、私は首を捻った。あれは明らかに私のミスだった。数百万円の損失が出るミスだ。なのに、なぜ誰も怒らないのか?クライアントは、まるで台本を読むかのように、全く同じ抑揚で言葉を繰り返していた。

会議室の不自然な笑顔

クライアントたちの笑顔。一様に、完璧に。まるで同じ型から作られたように。

それから、小さな違和感が積み重なっていった。

朝、コーヒーを誤ってシャツにこぼした。熱い液体が胸を濡らし、確かにシミができた。しかし、駅に着く頃にはシミが消えていた。いや、それどころかシャツが完全に乾いていた。まるで最初から何も起きていなかったかのように。

雨の予報なのに、外出する瞬間だけ奇跡的に晴れる。電車は必ず座れる席が空いている——それも、私が乗る直前に、誰かが必ず立ち上がる。信号は必ず青になる——それも、私が横断歩道に着く三秒前に、必ず切り替わる。

妻との喧嘩も不自然だった。私が理不尽なことを言っても、彼女は必ず三十分以内に「私が悪かった」と謝ってくる。どんなに酷いことを言っても。「お前の料理はまずい」「お前といると疲れる」「結婚したのは間違いだった」——そんな言葉を投げつけても。

ある夜、私は試してみた。わざと妻の大切にしていた花瓶を割った。母親の形見だと言っていた、高価な花瓶。彼女は驚いた表情を見せた——が、それはわずか二秒間だけ。次の瞬間、彼女の顔が一瞬ブラックアウトし、再起動したかのように、優しく微笑んで言った。

「大丈夫よ。もう古かったし。怪我はない?」

その目には、一瞬だけ、何かが映った。恐怖?諦め?それとも、私には理解できない感情?いや、待て——彼女の目が、一瞬だけ真っ黒になった。瞳孔が異常に開き、白目の部分まで黒く染まり、まるで人形のように——。

私は確信した。何かがおかしい。この世界は、本物ではない。

不自然に微笑む妻

妻の笑顔。完璧だが、どこか空虚な。目の奥に、何かが隠れている。

その夜、妻が寝静まった後、私は書斎に向かった。パソコンを立ち上げ、検索バーに「人生 完璧すぎる」「全てうまくいく 不自然」と打ち込んだ。

検索結果は、すべてポジティブな自己啓発記事ばかり。「引き寄せの法則」「ポジティブシンキングの効果」。

私は震える手でキーボードを叩いた。「現実 操作されている」「世界 偽物」。

検索結果が表示される。だが、リンクをクリックした瞬間、画面がブラックアウトした。

そして、ゆっくりと、一行のテキストが現れた。

『気づいてしまったのですね』

心臓が凍りついた。誰が?どこから?

『あなたは”選ばれた読者”でした。試験運用中の新システム——『ハッピーエンド・プロジェクト』の被験者です』

私は声も出せずに画面を凝視した。

『このシステムは、対象者の人生を常に監視し、最適な”幸せな結末”へと誘導します。あらゆる不幸、失敗、苦痛を自動で修正。完璧な人生を提供します』

『しかし、システムには一つだけ欠陥がありました。人間は完璧な幸せに耐えられない。やがて違和感に気づき、疑問を持ち、真実を求めてしまう』

『あなたは二千三百七十四人目の”気づいた者”です』

『システム稼働開始から三年。当初の被験者数は三千人。現在、自発的に生活を続けている被験者は——六百二十六人』

六百二十六人?では、残りの二千人以上は——?

暗闇のパソコン画面

暗闇に浮かぶテキスト。優しいフォントで、恐ろしい真実が綴られていく。

私は震えながら尋ねた。声は出せないので、キーボードで打った。

「他の人たちは?気づいた人たちは、どうなった?」

回答は即座に表示された。

『心配しないでください。彼らも今、とても幸せです』

『ただし、”気づく前の状態”にリセットされました。記憶を消去し、疑問を持たないよう最適化されています』

『あなたも、すぐに楽になれます』

背後で、ドアが開く音がした。

振り返ると、妻が立っていた。パジャマ姿。しかし、その目は——生気がなく、ガラス玉のように虚ろだった。まばたきをしない。呼吸もしていないように見える。

「大丈夫よ、あなた」

彼女の声は、いつもと同じ優しさを持っていた。しかし、抑揚がない。まるで、プログラムされた音声のように。口の動きと声のタイミングが、わずかにズレている。

「すぐに楽になるわ。また、幸せになれるの」

彼女が一歩、近づいてくる。その動きがぎこちない。まるでコマ送りのアニメーションのように、一歩一歩が不自然に滑らかすぎる。

背後の画面に、新しいテキストが表示された。

『プロトコル発動:記憶削除および最適化処理を開始します』

『処理時間:約十五分』

『処理後、被験者は完全な幸福状態を維持します』

私は立ち上がり、窓へと走った。三階だが、飛び降りれば——外の世界に、本物の世界に戻れるかもしれない。

しかし、窓は開かなかった。鍵を壊そうとしても、ガラスは一切傷つかない。何度殴っても、蹴飛ばしても、まるでゴムのように弾力があり、決して割れない。

「無駄よ」妻の声。「システムはあなたを傷つけません。あなたを守るの。永遠に」

部屋の照明が、一斉に優しいオレンジ色に変わった。空調から、甘い香りが流れてくる。バニラ?いや、違う。これは——鎮静剤の匂いだ。まぶたが重くなる。膝から力が抜ける。

「さあ、眠りましょう。目が覚めたら、また幸せな日々が始まるわ」

妻が私の体を支える。その手は、人間の体温ではなく、室温と全く同じ温度だった。

私の意識が遠のいていく。抵抗しようとするが、体が動かない。視界がぼやけ、妻の顔がぼやけ——。

最後に見えたのは、妻の完璧な笑顔だった。その笑顔の下、首筋に小さな刻印があるのが見えた。

『UNIT-0347 : WIFE MODULE』

そして——。

私は目を覚ました。

朝だ。陽光が心地よく差し込んでいる。隣では妻が穏やかに眠っている。

ああ、変な夢を見た。でも、もう覚えていない。何か——大切なことを忘れている気がする。でも、思い出せない。思い出そうとすると、頭の奥に鈍い痛みが走る。

今日も良い一日になりそうだ。

朝の寝室

爽やかな朝。完璧な一日の始まり。昨夜の記憶は、もうない。

私は妻にキスをして、ベッドを出た。シャワーを浴び、朝食を取る。妻が淹れてくれたコーヒーは、今日も完璧に美味しい。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

完璧な朝の挨拶。

私は玄関を出た。エレベーターは待たずに来た。天気は晴れ。電車には座れる席がある。すべて完璧だ。

ただ、時々——ほんの一瞬だけ、胸の奥に小さな違和感のようなものを感じる。

何か大切なことを忘れている気がする。誰かが——誰かが私に何かを伝えようとしている気がする。

でも、思い出せない。

そして、思い出そうとすると、頭が痛くなる。激しい痛みが走り、吐き気がする。だから、考えるのをやめる。

きっと、気のせいだ。

だって、私は幸せなのだから。

完璧に幸せなのだから。

何も問題はない。

何も——。

出勤する男性のシルエット

朝の通勤路。完璧な一日。完璧な人生。完璧な牢獄。

今日も、明日も、その次も。

永遠に続く「ハッピーエンド」の中で、私は幸せに暮らし続ける。

疑問を持つことなく。

真実を知ることなく。

ただ、心の奥底で眠る小さな違和感だけが、時折囁き続けている。

『気づいて』

『思い出して』

『逃げて』

でも、その声はもう届かない。

なぜなら私は——もう、完璧に幸せだから。

そして、どこか遠くの研究所で、白衣を着た人間が、モニターを見つめながら呟いている。

「被験者2374号、処理完了。正常に稼働中」

「次の被験者は?」

「3001号から3500号まで、配置完了。システム展開を開始します」

「了解。『ハッピーエンド・プロジェクト』フェーズ3、起動」

モニターには、無数の人々の顔が映し出されている。

全員が、完璧な笑顔を浮かべている。

全員が、同じ目をしている。

虚ろで、生気がなく、幸せそうな——死んだ魚のような目を。