大家が知らなかった、押入れの向こう側
2026年09月12日
実録ホラー
二十歳で一人暮らしを始めて、三ヶ月目だった。
借りた物件は築二十年の木造アパート。二階の角部屋で、家賃は相場より三千円安かった。大家は地方に住む老夫婦で、管理会社経由の電話対応だけ。入居時の説明も「鍵はしっかり掛けてね」だけで終わりだった。
問題は押入れだった。
部屋の奥に二帖ほどの押入れがあり、大家から「古いから使わないで」と言われていた。扉は開閉するが、内側の壁に直接接しているだけなので、奥に空間はないと思っていた。
引っ越しの初日、押入れの扉が閉まらなかった。
押入れの扉はレール式で、右にスライドすると開く仕組み。しかし右端まで行っても、まだ二センチほど隙間がある。レールがずれているのか、扉が膨張しているのか、よく分からない。
「しょうがないな」と、私は押入れの扉を無理やり開けた。
内側は埃っぽかった。前の入居者が置いていった古新聞と、折れ曲がった傘、そして何もない壁。それだけだった。
扉を閉めて、ベッドで横になった。
二日目。
夜中、変な音で目が覚めた。
カサッ、カサッ。
押入れの方向から、何か擦れる音。
「ネズミか?」
そう思った。古いアパートだ。仕方ない。また寝ようとしたその時、音が止んだ。
完全に、静かになった。
そして、また始まる。
カサッ、カサッ。
今度はもっと近くで。押入れの扉のすぐ隣。
私は布団から顔を出して、押入れの方を見た。
部屋の照明は消してある。月光が窓から差し込んで、押入れの扉の隙間が薄く浮かび上がっている。
その隙間から、光が漏れている。
三日目。
朝になった。押入れの隙間から漏れていた光は朝には消えていた。
「夢だったのか」と思い、押入れを確認した。
扉は閉まっていた。昨日開けたままにしたはずなのに。
開けて中を見ると、先日の新聞の山が、少しだけ動いていた。
「風か?」
木造アパートだ。窓が開いていれば、押入れの隙間から風が入って、軽い物を動かすこともある。
しかし、新聞の上に、小さな足跡がついていた。
泥のようなものが付いていて、足首ほどの幅の、人間らしい形だった。
押入れの床は畳ではない。合板張りで、埃が厚く積もっている。そこに足跡。
誰かが入った跡だ。
四日目。
夜、枕元にスマホを置いて寝た。
夜中、スマホの画面が光って目が覚めた。
午前2時17分。
通知は一つ。管理会社の自動メール。
「今晩、緊急点検の業者が来ます。部屋に入らせて頂く場合がありますので、ご了承ください。」
点検?そんな予定は聞いていない。
しかし、そのメールを送信したIPアドレスを確認すると、管理会社のサーバーではなく、全く別のアドレスだった。
偽物だ。
その時、押入れから音がした。
カチッ、カチッ。
扉のレールが動く音。
私が押入れの扉に手をかけた瞬間、音は止んだ。
指先が、扉の隙間にかかった。
外側から、押入れの扉を押されている。
五日目。
朝、大家に電話した。
「押入れ、誰か入っていますよ」
長い沈黙があった。
「……入居者は、あなただけですよね?」
「はい。でも押入れから、手が——」
「押入れは塞いであります。絶対に入れません」
「じゃあ、何が扉を押していたんですか?」
また、長い沈黙。
「……前の入居者が、返事をしていないだけですよ」
電話は切られた。
六日目。
押入れの扉をこじ開けた。
扉の裏側、壁と押入れの間の空間は、三十センチほどの幅があった。
その中に、寝袋と水筒、おにぎりの包装紙が転がっていた。
そして、壁に、何かが削り取られた跡。
壁紙が剥がれて、コンクリートが露出していた。
そのコンクリートの上に、指で何かを書いた跡がついていた。
消しかけたのか、消しきれなかったのか。
読めるのは、二文字だけ。
「で、た」
七日目。
引っ越すことにした。
荷造りをしている時、押入れの奥から、小さな音がした。
カサッ、カサッ。
昨日も聞こえた。今日は違う方向から。
押入れではなく、天井裏だ。
八日目。
引越業者が来た。
家具を運んでいる時、作業員が言った。
「この部屋、押入れの向こうに部屋ありますよ」
「え?大家には言われていません」
「いえ、築年数からして、押入れの壁の向こうはもう一つの部屋か廊下になってる可能性高いです。昔はそうよくありましたよ。押入れの壁、薄いんです」
「その向こう、今は何があるんですか?」
作業員は首をひねった。
「分かりません。でも一つ言えるのは——」
「何ですか?」
「押入れの奥の壁、触ってみてください。温かいですよ」
私は押入れの奥の壁に手を当てた。
確かに、温かい。
人の気配が、壁の向こうにある。
その夜、引っ越し先のホテルで、スマホを見ると、管理会社からメールが来ていた。
件名:「緊急点検の結果について」
本文:「本日の点検により、お部屋の押入れの奥に、無断で住み込まれていた方が確認されました。警察に連絡済みですので、ご安心ください」
私は冷や汗をかいた。
点検なんて、誰も来なかった。
メールを送ったのは、先ほど。
今、送った。
送信元のIPアドレスは、私のアパートのルーターと同じサブネットだった。
押入れの向こうから、送られた。