地下駐車場の階段室で、足音が止まった話

去年の秋、僕の妻が勤めている病院で大きな組織改革があった。

新院長がやってきて、夜間診療の縮小、スタッフの再配置、そして何より「地下駐車場のエレベーターは夜間停止」にするという通達だった。

「地下3階から地下1階まで、階段を使えって。バケツ持ってるおじさんみたいな顔してるわ」

妻は毎晩22時過ぎまで当直に入っていた。その日の帰りのことだ。

妻は地下3階の駐車場で車を始動させ、スマートフォンで僕にラインを送った。

「もう階段上がる。待ち合わせて」

僕は自宅のベランダから、病院の方向を眺めながら待っていた。

階段の足音

妻がエレベーターホールを通って階段室へ入っていくのは、僕も見たことがある。

病院の階段室はコンクリートの箱のようになっている。壁は緑色のタイルで、蛍光灯がチカチカと点滅している。

妻が階段を降りてくる足音は、いつも一定のリズムだった。

タタタタタタタタ。

それが地下2階の踊り場で少し止まる。息を整えて、またタタタタタ。

地下1階の階段室の出口は、地下駐車場へ直接繋がっている。

その夜、妻がラインで送ってきた写真を見ると、階段室の出口ドアが開いていた。

その向こうは暗かった。

足音が止まった

妻は階段を降りて、地下1階の出口ドアを開けた。

その瞬間、上の階から足音が聞こえた。

タタタタタタタタ。

妻は振り返った。階段を上から誰かが降りてくる。

でも、地下1階の階段室には誰もいない。妻はそう思った。

足音は地下1階の踊り場で止まった。

そして、また動き出した。

タタタタタタタタ。

今度は下から上へ向かって。

妻は背筋が凍るのを感じた。

「あ、あ、あ」

妻は出口を駆け上がった。地下1階の階段室の出口ドアを開けて、地下駐車場へ飛び出した。

駐車場は暗く、柱の影が伸びている。

妻は自分の車まで走った。鍵を開けて乗り込んだ。

その時、バックミラーに、階段室の出口ドアが開いているのが見えた。

そして、その向こうに、誰かが立っていた。

その後

妻はその日から、地下駐車場のエレベーターを使うようになった。

新院長の通達なんて、忘れたと。

でも、ある夜、エレベーターが地下2階で止まった時、妻はエレベーターの壁に耳を当てた。

その向こうから、足音が聞こえた。

タタタタタタタタ。

エレベーターの壁の向こうの階段室から。

でも、エレベーターのシャフトの壁の向こうに、階段なんて存在しない。

妻はエレベーターが動き出した時、初めて息を吐いた。

その夜から、妻は病院を辞めた。

そして、僕と話をして、引っ越すことになった。

理由を尋ねると、妻は言った。

「階段の足音が、エレベーターの壁の向こうからも聞こえるんだ。そしてね、その足音、僕らが引っ越した今でも、たまに聞こえるの」

「どこから?」

「ベランダから。階段の足音が、ベランダから聞こえるの」

階段の正体

妻が言うには、引っ越して最初の冬、ベランダでコーヒーを飲んでいる時だった。

下から、足音が聞こえた。

タタタタタタタタ。

コンクリートの階段を誰かが降りてくる音。

でも、そのアパートに階段なんてない。1階建ての戸建てだ。

妻はベランダの手すりを覗き込んだ。

駐車場には誰もいない。

妻は笑った。風だと思った。

でも、次の日、駐車場のアスファルトに、湿った靴の跡が一つ、残っていた。

階段を降りた先へ向かう、一本の足跡。

そして、その足跡の先で、突然終わっていた。

何にも繋がっていない、ただの靴の跡。


この話は、僕の妻が実際に体験した話です。

妻は引っ越してから半年が経った今でも、夜中に階段の足音を聞くことがあります。

僕らは一軒家に住んでいる。階段なんてない。

でも、足音は聞こえる。

毎晩、タタタタタタタタ。

湿った靴の音。

そして、毎朝、駐車場のアスファルトには、一本の靴の跡が描かれている。

階段を降りた先で、突然、終わっている足跡。

それは、僕らの家の前まで、一直線に伸びている。