露天風呂の怪異

知人の話だ。彼の名前は伏せる。

知人は三十五歳、東京・江東区の建設会社で現場監督をしている男だ。週に数回、現場の詰め所での泊り込み勤務がある。その出張先の話。

場所は長野県の山奥にある温泉旅館だった。国道から入って三十分、山道を入った先に建物が点在する、古いタイプの旅館だ。外からは木造の二階建て、中は板張りの廊下が複雑に絡み合っている。

「泊り込みの三日目、夜中二時ごろに目が覚めたんだ」

知人はそう語り始めた。

「夏だったから、冷房をつけていたんだけど、なぜか部屋の温度が高くて寝付けない。窓を開けようかと思ったその時、外から音が聞こえた」

「じゅわっ、じゅわっ」

「湯気がお湯に落ちる音だ。露天風呂の排水口が、夜中なのに開いている」

知人は布団から起き上がり、カーテンの隙間から外を見た。露天風呂の場所は一階の廊下を抜けて、右の階段を下りた先にある。窓からは露天風呂の屋根がうっすらと見える。

「湯船から白い湯気が上がっている。明かりはついていないけど、月光で湯船が白く光っている」

「誰もいないはずだ。旅館の宿直のおばあさんは一階のカウンターにいる。客は我々以外に、二階の部屋に夫婦連れが一台だけ。その夫婦は十時には就寝していた」

知人は「排水口を閉めないと、お湯が無くなる」と思い、着替えて露天風呂に行こうかと思った。でも、廊下に出る階段のところで足を止めた。

「廊下の床が濡れていた」

「自分では濡らしていない。でも、足跡が廊下に付いていた」

「露天風呂から降りてくる足跡だ」

「裸足だ。足の裏の形が、はっきりと床に付いている」

「足は大人のもの。でも、サイズが小さい。子供か、女性か」

「足跡は、露天風呂から廊下を伝って、階段を上ってくる途中で途切れていた」

「どこで消えたかっていうと、二階の廊下の、自分の部屋の真下のあたりだ」

知りは布団の中で動けなかった。二階の廊下に、誰かの足跡が残っている。でも、露天風呂の排水口からはまだじゅわっ、じゅわっという音が聞こえる。

「数分後、音が止まった」

「排水口が閉められた」

「その瞬間、二階の廊下の足跡が消えた」

「床が乾いていた」

「濡れていたはずの床が、一瞬で乾いていた」

知人は翌朝、宿直のおばあさんに尋ねた。昨夜、露天風呂の排水口を閉めたか、と。

おばあさんは首を振った。

「いいえ、昨夜は閉めませんでしたわ。毎晩、自動で閉まるんですよ。湯が冷めると、排水口が勝手に締まるようになっております」

「じゃあ、足跡は?」

おばあさんは珍しく、真剣な顔をした。

「……お客様、露天風呂の湯は、毎晩、沸かし直しております。夜中の二時頃に、湯を沸かす音で、目が覚めるお客様もいらっしゃるんですよ」

知りは言った。

「でも、湯気が上がっていた。排水口が開いていた。足跡が……」

おばあさんは黙って、露天風呂の場所を見上げた。

「あそこの湯温調整のノブ、右に回すと熱くなって、左に回すと冷たくなるんですって」

知りはその日の夜、旅館を後にした。

「でも、チェックアウトの朝、部屋の窓から露天風呂を見たら、湯船が白く光っていた」

「誰も入っていないのに」

「湯気が上がっていた」

「排水口は閉まっていた」

「でも、湯温調整のノブが、右に一杯まで回されていた」

「最大熱の位置だ」