露天風呂の水面

知人が去年の夏に経験した話だ。

知人の田村は、東京のIT企業のサーバーエンジニアとして、週に4〜5日はリモートで働いている。ある金曜日の夜、同僚から「今なら温泉旅館が安いよ」と勧められて、一人で山形県の温泉旅館に泊まることになった。

「一人旅なんて久しぶりだ。いいかもね」

そう言って、田村は車で行くことにした。東京から山形まで、車で五時間半。夜十時過ぎに旅館に到着した。

「チェックインは二十時までに限ります」

フロントの係り女中さんが、無愛想に手渡した鍵は、古い木製のナンバープレートのようだった。部屋番号は「七号館」。本館から少し離れた、木造の離れだった。

「露天風呂は二十二時までです。お気をつけを」

部屋に着いて荷物を置くと、田村は早速露天風呂に向かった。夜温泉は格別だ。星空が広がる中、露天風呂の湯船に浸かる。湯船は岩をくり抜いたような天然の大きさで、肩まで浸かると、疲れがドッと抜けていく。

「あー、よかった」

田村は目を閉じて、湯舟から顔を上げた。その時だった。

水面に映る自分が、動きを止めていたことに気づいた。

田村は顔を上げた。水面には、顔を上げた自分の姿が映っている。

しかし、映った自分の顔が、笑っていた。

田村は、笑っていなかった。

「……なんだろう、歪みかな」

湯の揺れで、水面の反射が歪んでいるだけだと思った。田村はもう一度、水面を覗き込んだ。

水面に映る自分は、今度は泣いていた。

田村は泣いてなどいない。

背筋が凍るのを感じた。田村は水面から顔を上げ、ゆっくりと湯船から立ち上がった。足が湯船から出た瞬間、水面に映る自分の姿も、湯船から立ち上がった。

「よかった……」

そう安心した田村は、タオルを持って部屋に戻ろうとした。その時、別の声が聞こえた。

「お帰りなさいませ」

露天風呂の入口に、先ほどの女中さんが立っていた。田村は驚いて振り返った。

「あ、すみません。ただいま——」

女中さんは、田村の顔を見ず、水面の方を向いていた。

「露天風呂、もう閉めますね」

「ああ、もう帰るよ」

「そうですか。でも、もう誰も入らないんですから」

田村は不思議に思った。

「え、だって今入ってたよ」

女中さんは、初めて田村の顔を見た。その目は、白目がほとんどなく、黒い部分が大きく開いていた。

「いや、今夜、露天風呂に入られたのは、あなただけではありませんから」

田村の血液が、凍りついた。

「……何を言っているんだ」

「あなただけが、自分の姿を見て驚いたのですよ。他の方は、水面に映った自分が、自分ではないと、最初から分かっていたんですから」

女中さんは、ゆっくりと田村の元を去っていった。

田村は、震える足で部屋に戻った。その夜、田村は旅館を辞めることにした。

フロントで精算をしていると、先ほどの女中さんがいた。

「お忘れ物はありませんか?」

「いえ、ありません……」

「それでは、またお越しを」

女中さんは、そう言って微笑んだ。その口元が、水面に映った自分の顔と、そっくりだった。

田村は、その日以来、温泉には行っていない。

そして、今でもたまに、洗面所の鏡に映る自分の顔が、ほんの少し、笑顔になっているのを見ることがあるという。