実家の押入の奥に、誰も入らない部屋があった
2026年08月23日
実家の押入の奥に、誰も入らない部屋があった。
実家に帰ったのは高校卒業後、四年ぶりだった。東京の賃貸アパートから、実家のある地方都市に引っ越してきたのは、父の入院がきっかけだ。病状は深刻ではなく、数週間の観察期間だったはずだが、母から「一緒にいてくれないか」と言われると断りきれなかった。
実家の二階廊下には、押入が三つ並んでいた。左から「布団部屋」「物置」「物置」。母がそう呼んでいた。
「真ん中のは衣類をしまっておくから」 「奥のはもう閉じっぱなしだよ。柱が腐ってるから、開けないほうがいいって父が言ってた」
初めてその言葉を聞いた時、特に違和感はなかった。古い家だ。物置が二つあるのは普通だ。
違和感が生まれたのは、三夜目だった。
夜中、トイレに起きた時だった。廊下を歩くと、奥の押入から、かすかに「ゴソゴソ」という音がする。
「父さんか?」
と、声を出しかけたが、父は退院して実家に戻っていない。母も下の階で寝ている。
音は、押入の中から聞こえてくる。
私はその押入の前に立ち、数秒間、耳を澄ませた。
ゴソゴソ。
また音がした。
押入の扉は、昔ながらの木製の引き戸で、レールが錆びている。開けるには力が必要だった。
「誰かいる?」
と、また声をかけた。今度は少し大きく。
音は止んだ。
次の日、母にそのことを話した。
「ああ、あの音か。ネズミかもしれないね。父さんも言ってたけど、あの部屋、本当に物置になってないんだよね。柱が腐ってて、開けるのが怖くて」
「開けてみたら?」
「ダメよ。あの部屋、入っちゃダメって父が言ってた。本当に。」
その時、ふと母の表情が曇った。まるで、ある言葉を口にするのを避けているような。
「あの部屋……父が子供の頃、作らせようとした部屋なんだって。『子供が一人くらいいるだろう』って。でも母が反対して、作らせなかった。だから、柱もちゃんと調べてないし、床も腐ってる。危険だから、絶対に入っちゃダメって。」
「父が子供の頃」
私はその言葉を反芻した。
父は、子供の頃にその部屋を作ろうとしたことがある。でも作られなかった。
では、その部屋の扉の向こう側には、何があるのか。
四夜目。
また音がした。
今回は、ゴソゴソではなく、「カチッ」という音だった。
金属が金属に当たる音。
押入の扉が、開いたような音がした。
私は息を止めて、その扉を見つめた。
半分だけ、開いている。
先程閉めたはずの扉が、半分だけ開いている。
廊下の明かりが、押入の奥に、わずかに差し込んでいる。
暗闇の向こうに、何かがいる。
「誰かいる?」
と、また声をかけた。
返事はない。
しかし、その押入の向こう側から、かすかに「ヒュルルル」という、呼吸のような音が聞こえてきた。
それは、人間の呼吸とは違う。
もっと、古い何かの、呼吸だった。
その夜、私は実家を離れた。
母に電話をして、父の容体が急変したと嘘をついた。東京に戻ることになった。
「あの部屋、開けちゃダメって言ったよね?」
と、母に尋ねた。
電話の向こうで、母はしばらく沈黙した。
そして、小さく、そう言った。
「……開けないで。」
その時、母の背景から、かすかに「ゴソゴソ」という音が聞こえた。
実家の二階から。
今、私は東京の賃貸で一人で暮らしている。
しかし、昨夜から、私の部屋の押入から、かすかに「ヒュルルル」という音が聞こえるようになった。
開けてはいけないと、母が言った。
しかし、今、その扉が、少しずつ、開いている。