奥の押入の扉がわずかに開き、暗闇から何かが覗いている

実家の押入の奥に、誰も入らない部屋があった。

実家に帰ったのは高校卒業後、四年ぶりだった。東京の賃貸アパートから、実家のある地方都市に引っ越してきたのは、父の入院がきっかけだ。病状は深刻ではなく、数週間の観察期間だったはずだが、母から「一緒にいてくれないか」と言われると断りきれなかった。

実家の二階廊下には、押入が三つ並んでいた。左から「布団部屋」「物置」「物置」。母がそう呼んでいた。

「真ん中のは衣類をしまっておくから」 「奥のはもう閉じっぱなしだよ。柱が腐ってるから、開けないほうがいいって父が言ってた」

初めてその言葉を聞いた時、特に違和感はなかった。古い家だ。物置が二つあるのは普通だ。

違和感が生まれたのは、三夜目だった。

夜中、トイレに起きた時だった。廊下を歩くと、奥の押入から、かすかに「ゴソゴソ」という音がする。

「父さんか?」

と、声を出しかけたが、父は退院して実家に戻っていない。母も下の階で寝ている。

音は、押入の中から聞こえてくる。

私はその押入の前に立ち、数秒間、耳を澄ませた。

ゴソゴソ。

また音がした。

押入の扉は、昔ながらの木製の引き戸で、レールが錆びている。開けるには力が必要だった。

「誰かいる?」

と、また声をかけた。今度は少し大きく。

音は止んだ。

次の日、母にそのことを話した。

「ああ、あの音か。ネズミかもしれないね。父さんも言ってたけど、あの部屋、本当に物置になってないんだよね。柱が腐ってて、開けるのが怖くて」

「開けてみたら?」

「ダメよ。あの部屋、入っちゃダメって父が言ってた。本当に。」

その時、ふと母の表情が曇った。まるで、ある言葉を口にするのを避けているような。

「あの部屋……父が子供の頃、作らせようとした部屋なんだって。『子供が一人くらいいるだろう』って。でも母が反対して、作らせなかった。だから、柱もちゃんと調べてないし、床も腐ってる。危険だから、絶対に入っちゃダメって。」

「父が子供の頃」

私はその言葉を反芻した。

父は、子供の頃にその部屋を作ろうとしたことがある。でも作られなかった。

では、その部屋の扉の向こう側には、何があるのか。

四夜目。

また音がした。

今回は、ゴソゴソではなく、「カチッ」という音だった。

金属が金属に当たる音。

押入の扉が、開いたような音がした。

私は息を止めて、その扉を見つめた。

半分だけ、開いている。

先程閉めたはずの扉が、半分だけ開いている。

廊下の明かりが、押入の奥に、わずかに差し込んでいる。

暗闇の向こうに、何かがいる。

「誰かいる?」

と、また声をかけた。

返事はない。

しかし、その押入の向こう側から、かすかに「ヒュルルル」という、呼吸のような音が聞こえてきた。

それは、人間の呼吸とは違う。

もっと、古い何かの、呼吸だった。

その夜、私は実家を離れた。

母に電話をして、父の容体が急変したと嘘をついた。東京に戻ることになった。

「あの部屋、開けちゃダメって言ったよね?」

と、母に尋ねた。

電話の向こうで、母はしばらく沈黙した。

そして、小さく、そう言った。

「……開けないで。」

その時、母の背景から、かすかに「ゴソゴソ」という音が聞こえた。

実家の二階から。

今、私は東京の賃貸で一人で暮らしている。

しかし、昨夜から、私の部屋の押入から、かすかに「ヒュルルル」という音が聞こえるようになった。

開けてはいけないと、母が言った。

しかし、今、その扉が、少しずつ、開いている。