薄暗い病室のベッド脇、点滴のポルフィュールは止まりかけている。ガラス瓶中の液滴は一瞬だけ空中に浮いたままになっている

第一の記録:訪問看護師 西本優衣(担当記録)

「おはようございます、井上様。今日は少し寒さを感じませんか?」

患者:井上貞之(87歳 / 要介護度4 / 慢性肺疾患)

毎週火・金曜日の往診を担当しています。井上様は二人暮らしの息子様が遠方がかりとなり一人老後をすごされています。

今回は特別に午前中の早い時間帯に伺いました。八時半頃だったかと思いますが、玄関を開けた瞬間違和感がありました。「おかしいな、昨日もこの時間が……」と思っていたのですが、これは後になって考えたら不思議なことでした。なぜならその日曜日の往診が午後四時だったからです。同じ時刻に会うのはありえません。

でも井上様はいつもと何一つ変わらず、ベッドサイドで私を迎えてくださいました。いつも通りに血圧を測り、点滴の管理をしました。ただ一点だけいつもと違うのが、点滴バッグの中の液滴が「止まっている」ように見えたことです。動いていないのではなく、止まっていたのです。

これは私の錯覚かもしれませんが、一時間後にまた確認しに行っても同じでした。

翌朝の記録:夜間看護録

昨夜、井上様が呼吸苦を訴えたため、救急車の手配を行いました。しかし来院直前に症状は落ち着き、帰宅となりました。帰る際に「先生、今日は本当にありがとう。でも一つお願いがあるの」。と。

「なんでしょう」

「明日もおいでくださいね、西本さん。あの……止まってしまうのが怖いのです」と。

私はその意味がわからず微笑んで応対しました。しかし昨夜の時点でこのことが気になり始めています。なぜなら井上様の家族から連絡があり、「父が昨日も同じ時間を話していた」というのです。

三日目の往診で確認すると、井上様は同じ服を着ていました。二日前と全く同じ服でした。しかも「今日は朝から体調がいい」とおっしゃいましたが、それは私が来た日のことではありませんでした。「いや西本さん、私はもうずっとこの状態なんです。目が覚めるとここに戻ってくるの」

初耳のことをおっしゃる井上様を前にして、私は言葉を失いました。

第二の記録:息子さんからのメール(回収時)

父親の状態が心配で来週面会に来る予定です。ですが一つ確認したいことがあります。先日父と電話したとき「また西本さんが来る」と言っていたのですが、それは今月だけで三回目に当たるそうです。

父は最近記憶障害が進んでいると聞いていますが、「同じ人が何度もある」のは別の問題かもしれません。もしこのメールを読んで、なにかご存知の方がいたらご連絡ください。

第三の記録:西本の最終往診記(一部確認不能)

……今日はもう来ないでください。井上様がおっしゃっていました。

私が気づいたのです。井上様が言う「この状態」とは、点滴が止まっている瞬間のことではなかったと。彼自身がその中にいるのだということを。時が止まった部屋にいるのかではなく、時が止まっている人物として存在しているということ。

昨夜の往診で、私は意を決して問いました。「井上様、死なないってどういう意味ですか」

「死ねないのよ、西本さん」。彼が目を閉じて笑いながら言ったのはそんな内容でした。

第四の記録:現場検証メモ(回収時不明)

井上貞之 氏 死亡確認時間:[読取不能]

医師名:[読取不能]

死後経過時間は測定不能。理由:体温・瞳孔反射ともに通常の死後の変化を示していないため。法医が「これは生理活動の完全停止ではなく、何らかの……凍結状態ではないか」と発言したとされるが詳細不明。

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