階段の下側
2026年08月01日
マンションの5階に引っ越して一週間目だった。古い物件で、廊下の壁紙がむっくりと浮いている所がありながら、部屋の広さと安さにつられて決めた。
玄関から入ると正面に階段があった。1.2メートルほどの小上がりからの折り返し階段で、上の階へ上がる。木のリノリウム敷き、壁には白っぽい塗料が二回塗りされたままの跡が見える。「前の住人は大家直営だった」と大家は言ってた。
夜中三時前に尿意で目が覚めた。トイレに行ったついでに下階も軽く覗いてみようと思い、階段の手摺につんのめるように降りていった。暗闇の中で足が一段ごとに擦れた紙を踏むような音を立てる。1Fの廊下に到着した瞬間、頭上の5Fから何かが降ってくる気配を感じた。振り返った。
階段の折り返し部分に、上から見下ろす形で「自分」が立っているのが見えた。まるで鏡の中の自分が階段の中腹で、上向きにこちらを見つめているのだ。同じ服を着ている。同じ髪型をしている。夜着のまま立っているのも同じだった。しかしその「自分」の顔は笑っていた。深夜3時のトイレ帰りだなどという真面目な顔をしてはいなかった。口角が引き裂かれたように歪み、目だけが小さく黒く光っている。
私は階段を這い上がるように5Fに戻る。扉を閉め鍵をかけ、枕元に置いていたスマホの電灯を点けた。画面には「03:12」。何ともない自分の顔が映る。
もう一度行けばいい。本当に自分がいるのかどうか、目視確認するべきだ。
また階段を降りた。今回は上を見上げた状態で。折り返し部分の陰に影があるのが見える。近づいていく。「自分」はいる。同じ服、同じ姿。だがその表情が先ほどよりも歪んでいる。口の隅から涎のようなものが垂れ下がっている。
「おいっ!」と小声で叫んだ。「何だ、お前」と問うた。
下の「自分」の口が開いた。声は階段に何度も反射してかすれてきて、かすかに聞こえた。それは私のかつてのセリフそっくりだった——「何だ、お前」
折り返しの床が揺れた。私の足元も揺れたかと思ったら、どうやら上階からの振動なのか下階への振動なのか判断しかねた。階段を上ろうとした瞬間、「自分」たちが同時に動いた。上の私は上に足を上げた。下の「自分」は下へ足を踏んだ。同時で同期して同じペース――まるで双方向の鏡像是上下逆再生された映像かのようで、恐怖が冷たい指のように脊髄を伝わった。
階段を上れなくなった。足が自分のものではなくなっていた。動けなかった。ただ立ち尽くすだけで、上の自分と下の自分が同時に私の方を覗き込んでいた。その二つが合流する瞬間の恐怖は言葉にできなかった。
走った。5Fの玄関を閉めた。鍵もかけた。それでも足音が聞こえた。階を下る音ではなく階段を上ってくる音だった。上階に私がいるはずなのに。
夜明けから朝までベッドから動けなかった。朝起きて窓から下の敷地を見ると、隣家に住人の人影があった。見慣れない若い女の顔を見下ろすような目線がどこかぞっとした思いをさせた。
それから三ヶ月。引越し先のマンションでも階段を見た瞬間冷たいものが背筋を走ったことがあった。でも気にしないようにした。今ではもう覚えていない、あの「自分」が本当にいたのかどうか。だが、この夜は特に静かなので、ふと上階を思い出す。上のフロアはいつも静かだ。「今の住人は誰もいない」と大家も言っていたっけ。
階段を下る途中に何かを「見下ろされる感覚」に襲われた時、その感覚が実際にあることを私は知った。天井からの足音ではない。階段の下側から、何かが上って来るところの気配として。
私は今も階段の上で生きている。誰かに見守られているような気がしてならない。それは夜になると現実に近づく——暗闇に浮かぶ二つの影のように。