深夜のカラオケ個室で、鏡に映らない自分がいた
2026年09月05日
友達が「一人カラオケ行ってきた」と話していたので、私は半ばあきれながら「また一人?」と聞き返した。
「いや、なんかさあ、おかしいんだよね」
彼はグラスをテーブルに置き、目を伏せて小声で語り始めた。
先週の木曜日。仕事終わりにそのまま地下の24時間カラオケ店に入った。
深夜の十時過ぎ。フロアには私以外に誰もいない。
一番奥の個室を予約し、ドアを閉めて中に入った瞬間、静寂が私を包み込んだ。
部屋は十二畳ほど。天井は暗く、壁にはLEDのネオンがゆっくり色を変える。中央にテーブル、その向かいにソファ。右側の壁に大きな鏡が一枚、床から天井まで届く長さで取り付けられている。
「まあ、いいや」
私はマイクを取り、好きな曲をかけ始めた。
一人カラオケの醍醐味は、誰の目も気にせず歌えることだ。大きな声で、下手な音程も気にせず。
三十曲ほど歌った頃だったと思う。
ふと、鏡に映る自分の姿が目に入った。
私は歌いながら、ついでに鏡の中の自分を見ていた。
その時、違和感が走った。
鏡の中の自分が、私の動きについてきていない。
いや、正確に言えば——
鏡の中の私が、私より一秒遅れて動いていた。
「……はあ?」
私は手を振った。鏡の中の私も、一秒後に手を振った。
私はうなずいた。鏡の中の私も、一秒後にうなずいた。
最初は気のせいだと思った。
疲れでもしようか、と目をこすり、もう一度鏡を見た。
鏡の中の私は、今ちょうど目をこすっていた。
でも、そのあと、鏡の中の私が、私が見ていないところで笑っていた。
私は目を凝らした。鏡の中の私は、今ちょうど真顔で私を見つめている。
でも、さっき、確かに笑っていた。
「……な、何だこれ」
私はその場から立ち上がった。近づいて鏡を見た。
私の顔が、鏡に映っている。
汗ばんだ額、開いた口、震える目。
すべて、私の姿そのものだ。
でも、鏡の中の私が、さっき笑ったこと——
それは、私の顔にはなかった。
「…………」
私はその場から逃げ出した。
ドアを開けて廊下に出た。店員に「もう帰る」とだけ言い、レジへ向かった。
店員は「またいらっしゃい」と言った。
私は頷き、出口へ歩いた。
「それで、そのあと?」
友達が聞き返した。
彼は首をかしげた。
「いや、そのあとのことが、よくわからないんだ」
「え?」
「出口のガラス扉に、自分の姿が映ってるのに気づいたんだ」
「……で?」
「そのとき、ガラスに映った自分が、私より三秒先に歩いていた」
友達はグラスの氷をかき混ぜた。
「三秒後、私がガラス扉に近づいたとき、ガラスに映った自分も、ちょうど私と同じ位置にいた。でも、さっき——私がまだ十メートル先いたのに、ガラスの自分はすでに扉のすぐ前まで歩いていた」
「……それは、遅延がまた起きたってこと?」
「いや、違う。遅延じゃない」
彼は目を上げ、私を見た。
「ガラスの自分の方が、私より先に歩いていた。つまり、鏡の中の自分が、私を待っていた」
私はその夜、友達の話を聞き終えた。
今でも、彼が「ガラスの自分が私を待っていた」と言った時の表情——
それを忘れない。
そして、たまに、深夜のカラオケの個室を通りかかると、ふと窓ガラスに映る自分の姿を見てしまう。
もし、その映り込みが、私より一秒早く動いたら——
私はもう二度と、あの店には入らない。