歪録 (yasumi)
2026年08月01日
オーディオエンジニアの松岡は、深夜帯の収録を請け負ったのは三日前のことだった。地方出身者の声優予備科のレッスン用素材——「母への手紙」を朗読させるときのBGM兼参考音源だ。七人の受講生がそれぞれ自分の言葉で「お母さん」と呼びかける。そのうち五人までは綺麗に納まった。残りの二人、特に対象者が問題だった。
四号の女子学生の収録が終わったとき、すでに午前二時を回っていた。松岡はヘッドホンから外れてモニターに向かった。「次行きますね」
しかし画面にはレコーディングが継続中だといった表示が出ていた。録音開始ボタンを押したのは松岡自身が三日前で、それ以来誰もそのセッションへアクセスしていない——のは当然だった。学生たちは退室し、スタジオは施錠したままになっていた。
松岡は再生をかけた。
ノイズの山から、かすかに人の息遣いが聞こえた。四号の学生の声ではない。だが同時に、彼女のものだと思われる別の音も混入している:舌打ち、首を回す骨の軋み——それらをまるで反復機に映したように、「0.83秒遅れ」で再生させている何か。
松岡は音量を上げ、スペクトログラムを表示した。可視化された波紋の中に、明確な人間の形があった。周波数帯域の低域に、呼吸音以外の振動——指先でテーブルを叩くリズムだ。3-2-1-という間隔で、正確に四分音符。
スタジオのインターホンが鳴った。モニターに表示したのは「四号」という名前のまま、ただし時刻は当日午前9時47分で、松岡がこのノイズを聴いていたのが深夜2時50分だったことを考えれば、あり得ない日時である。
松岡はインターホンのマイクを押した。「はい?……失礼ですが、今スタジオには入室していませんよね?」
「入っていませんよ」相手の声はいつもと変わらない。冷静で、だがどこか奥から滲んだような違和感があった。「ただ、録音のフィードバックが聞こえちゃうんですけど——」
松岡はスピーカーを確認した。全チャンネルミュート済みのはずだ。だがモニターの波形表示は、今この瞬間にも振動を刻んでいる。低域の波紋に指先でテーブルを叩くリズムが、再び3-2-1と反復された。「お母さん」、四号の声も重なった——しかしそれはすでに六時間前に撮られたものであるはずで、そのテキストファイルは松岡のPCから削除済みだ。
松岡はスタジオの外に出た。廊下には誰もおらず、エレベーターの表示は何故か全階点滅している。エレベーター内部にいたのは四号ではなく——しかしモニター画面の中で波紋が形作る人間のシルエットは、明らかに二つ目と見紛う程別の「何か」だった。
松岡が振り返った瞬間、スタジオ内の全てのスピーカーから同時に再生が始まった。ノイズの中から聞こえてきた声の一つ一つは、既に退室した学生のものの筈だ——だが同時進行のように、松岡自身の「失礼します、もう帰ります」というセリフも混じっているのであった。
その瞬間から一週間、松岡のスマホ録音には誰かが付け加えた形跡のない音声データが混入し続けた。元のファイルに元々が存在しない人間の気配——0.83秒遅れの反復で彼の呼吸を映す波紋。
四号は退学届を出した。「収録中に『もう一人の声が聞こえる』って先生に言ったじゃん」 松岡はメモリーディスクを確認した。七つのセッションの波形データの中に、一つだけ異物の存在——四号の音声データの低域に埋め込まれた人間の振動、名前も性別も判別不能。しかし可視化されたスペクトログラムを何度見ても、松岡だけは一つの規則性を見つけた:
全ての「歪録」は、松岡自身の呼吸音から正確に0.83秒後に始まっている。
それはつまり、もう一つの存在が——彼の生活リズムと同じリズムで生きることを、既に学習し終えているということだ。