アパートの入り口に鏡があると気づいたのは、引っ越し二日目のことだった。

「前の入居者が置いてったんですって」。大家がニヤリと笑いながら玄関の壁に寄り掛かった。「古い鏡だけど、掃除して使えば大丈夫よ」

透明なプラスチックフィルムで包まれた円形の鏡。直径わずか六十センチほど。重さは軽い。壁に取り付けるネジも付属していたので、玄関の高さにねじ込んで仕上げた。

「邪魔じゃない?」と妻子が笑った。

「見慣れるさ」。自分はそう答えてタオルを剥がした。

鏡の中に映る自分の顔は、いつもより少し年をとっているように見えた。疲れ目だと思い込んだ。

三日目の夜、妻からLINEが来た。

「玄関の鏡、おかしくない? 通るとき毎回後ろ振り向いちゃうの。気持ち悪い」

「鏡だよ。当たり前じゃん」。返信してスマホをポケットに戻した。

しかしその一言が脳裏から離れなかった。確かに鏡の中の自分は、笑っていない。こっちを見ているだけで。

翌朝出勤前に鏡の前を通ったとき、ふと立ち止まった。映る自分の顔が、微かに俯いているのだ。現実の自分が正面を向いていても。

怪訝な表情で覗き込むと、今度は逆だった。こちらが俯いた途端、鏡の中の自分がぴしっと顔を上げている。

「……何やってんだ」小声で呟いた。しかし声は鏡の中から聞こえてこない。反射した声はどこか遠くへ吸い込まれていくようで、耳元にはほとんど響かない。

その日から鏡の中の自分は、少しずつ違う行動を始めた。

こちらがコーヒーを飲むとき、鏡の中は水を使わない。こちらが靴紐を結ぶとき、中は何もしていない。こちらが電話に出るとき、中は目を閉じている。

まるで別世界に隔離された別の人格のように。

一週間目のある夜、妻が叫び声を上げた。「 mirror が光ってる」

玄関の明かりを消した夜中、鏡が自発的に淡い緑色に発光しているのだ。その中には自分の姿なんて映っていない。ただの暗闇と、その奥でうっすら浮かぶもう一つの実体が。

「壊しちゃダメよ」。大家の後から届いたメッセージだった。「前の人も帰ってきたときは同じだったんだもの」

「帰って来た? 誰が?」

返事は来なかった。

翌日 mirror を見てみると、自分が映っていた。しかしそれが自分ではないことが明らかだった。表情は全く違っていて笑っていながら目だけが凍りついている。そして右手にスマホを持っていて、画面には自分のLINEの画面が映っている。受信欄には見知らぬ番号から「今鏡を見てるね」という一文。

その瞬間玄関から本物の自分が帰宅した。妻と息子が待っていた。「おかえりなさい」——。しかし鏡の中の私はすでに別のことをしていた。口を動かして言葉を発しているように見える。唇の動きだけを追う。

「……逃がさない」。

それを読んだ途端、鏡の中から手が伸びてきたのではない。むしろ自分が鏡へと吸い込まれていくような感覚だった。一瞬のめまいの後、再び自分たちは玄関に立っていた。妻と息子が笑って迎えてくれた。「ただいま」——。しかし胸の奥が抜け落ちたままだった。

夜鏡を見直した。自分の姿はもう映らなかった。ただ暗闇の中に、誰かが座っているシルエットだけが。ずっと前からそこにいたような静けさで。

その日の深夜、妻からのLINEが届いた。

「ちょっと違う人になってない? いつもよりも無口だけど」

画面に映る自分は、微笑んでいた。