管理会社に勤務する田所が空き家清掃を手掛けるようになって、三年になる。

「全物件に足跡がない」のが条件付きで採用された理由だった。彼女は静かに、確実に入居者の生活痕を消していく。本棚から本を一冊残らず運び出し、カートの隅まで埃を拭き取り、壁のシミも隠さずに記録する。

その日、四時限目の物件は都内某所の八階建てアパート、三号室だった。退去日の翌日。入居前に清掃完了品確約書に捺印して鍵を開ける。

廊下に足を踏み入れた瞬間、田所のカラの靴が止まった。

暖房がついていたのだ。真夏なのに、エアコンのリモコンは冷房二十五度の表示のまま壁掛けに挿さったまま。換気扇には一週間前の付箋を挟むほど粘着力のある埃がかかっていたのに、窓は開けっ放しで、夜の風がカーテンを持ち上げている。

田所は何年となく同じ光景を目にしてきた。でも今回は違うものがある。

リビングの床に、濡れた下駄の跡が残っている。泥水のように見えた。外に出たはずがないというのに。

「……前の入居者の方、まだいらっしゃいますか?」と彼女が空気に問いかけたのは無意識だった。返事はない。ただ換気扇の羽根がゆっくり回っていた。電気は切られている。

田所はその部屋で作業を続けた。トイレに備品の破片があり、冷蔵庫から腐った漬物の瓶。食卓に茶碗が並んでいた。三つ。湯呑みも三つ。二人家族には多すぎる数だ。

キッチンで最後の埃拭きを終え、廊下に戻ろうとしたとき。浴室のドアが開いていたので止まった。白タイルの床は乾いているはずなのに、水滴が壁の隅から一本、細い線を描いて流れていた。シャワーを浴びた後の湯気のような匂いがした。

田所は深呼吸してスマホを撮った。入居者痕跡あり、報告用写真に収める。その瞬間だけだったかもしれない。

次の家に入るときにはもう、足音が聞こえなくなっていた。でも二日後、彼女は自分の靴の裏に泥の水たまり跡を見つけた。オフィスにもとってくるほどの量だ。

田所は翌日より、空き家清掃を辞めた。契約期間がまだ残っているにもかかわらず。理由を尋ねる同僚にはただ「体調不良」と答えただけだった。

でも毎晩同じ夢を見る。朝の四時二三分に、目が覚めて廊下に出ると、誰かの影が別の部屋の前に立ち止まっていること。ドアは開いていないのに。

ある夜、田所は決意して自分の家の前の廊下に録画機を置いたのだった。夜中三時頃、再生した映像には、自分が寝静まった後、浴室から水音だけが聞こえる映像が映っていた。誰かは映っていなかった。でも流れていた水滴が止めどなく流れ続けた。

あの日以来、彼女の部屋で水道を少し開けっ放しにしたことがあるとすると、朝までに床一面の水たまりができていることに気づくようになっている。何かが出てこない限り、水は止まらないのだと田所は思っている。

{}\n− 完 −</svg>