終電を逃した僕が乗ったタクシーが、いつの間にか高速道路を走っていた話
2026年11月11日
東京のオフィスで残業が朝の三時を超えた。
駅もバスも終わっている。仕方ないので駅前のタクシー乗り場で並んだ。行列は僕一人。待っているうちに、ふと「これでいいや」という気持ちになった。深夜の都内、どこでも八百円くらいだ。
「池袋へお願いします」
ベロラインのタクシーがゆっくりと停まった。運転手は中年の男性で、無表情だった。
「池袋のハイツ、山手通り沿いの」
住所を告げると、運転手は小さくうなずいた。バックミラーで僕を見ることなく、そのまま発車した。
車内は妙に暖かかった。エアコンの音だけが流れている。ラジオはついていない。
池袋まで二十分くらいかかったと思う。道路が広く、車線も多くなったところで、ふと気づいた。
この道、違うんじゃないか。
普段乗っても絶対通らないルートを走っている。むしろ池袋とは逆方向のようにも感じた。
「すみません、ちょっと道が違うような」
運転手はバックミラーも見ずに答えた。
「はい、そうですよ」
何のことだか分からなかったが、それ以上は言わなかった。深夜の疲れが勝った。
十数分ほど経ったと思う。窓の外を見ると、高速道路のガードレールが走っていた。
高速に乗っている。
「ちょっと、これは」
「はい、高速です」
「どうしてこんなところを——」
ここで初めて、料金メーターを確認した。
表示された数字は、すでに一万三千円を超えていた。
「待ってください、降ります」
「すみません、今は降りられません」
「どういうことです」
運転手はついにバックミラーを直視した。
その瞳が、おかしい。瞳孔が開きすぎていて、黒い部分がほとんどなかった。
「あと少しです」
車が合流地点に入った瞬間、僕は気づいた。
このタクシー、外灯がないのだ。
窓から見える街並みに、電気が一つもついていない。ビルはすべて暗い。信号機もない。高速道路の照明さえ消えている。
まるで、この世界だけが時間から切り離されたように。
「停めてください。今すぐ、降りさせていただきます」
僕はドアのハンドルに手をかけた。
動かなかった。
「降りる時は、お支払いを」
運転手がポケットから取り出したのは、札束ではなかった。
古い、紙切れのようなものだった。表には数字が書いてある。一万三千円。
メーターの表示と全く同じ数字だ。
「これ、ください」
運転手が紙切れを僕の膝の上に置いた。その時、メーターの数字が、ゆっくりと増えていった。
一万三千一百円。一万三千二百円。
「やめてください。降りるんですから」
「あと少しです」
車はどんどん走っていく。外は暗い。暗い。暗い。
僕は窓を割ろうとした。窓ガラスは、何かに覆われていて、叩いても割れなかった。
その時、メーターの数字が止まった。
一万三千八百円。
「着きました」
窓の外には、見覚えのある建物があった。
山手通り沿いのハイツ。
正確に、僕が住んでいる部屋の場所だった。
「ありがとう」
僕は逃げるように降りた。振り返らなかった。
部屋に入っても、手が震えて止まらなかった。
次の日、新聞の隅に小さな記事が載っていた。
「先週、山手通りでタクシーが暴走し、ガードレールに突っ込む事故が発生。運転手は意識不明。車内から古い紙切れが多数発見された」
紙切れの裏に書かれていた数字を、記者が一つ一つ書き残していた。
一万三千八百円。
その数字が、僕のメーターの表示と全く同じだった。
それから一週間経った。
昨夜、インターホンが鳴った。
モニターを見ると、ベロラインのタクシーが、僕の前の駐停車スペースに停まっていた。
運転席の窓から、白い紙切れが少し見えた。
まだメーターは走っているのか。
それとも、僕が支払うのを待っているのか。
インターホンは、今も鳴り続けている。