東京のオフィスで残業が朝の三時を超えた。

駅もバスも終わっている。仕方ないので駅前のタクシー乗り場で並んだ。行列は僕一人。待っているうちに、ふと「これでいいや」という気持ちになった。深夜の都内、どこでも八百円くらいだ。

「池袋へお願いします」

ベロラインのタクシーがゆっくりと停まった。運転手は中年の男性で、無表情だった。

「池袋のハイツ、山手通り沿いの」

住所を告げると、運転手は小さくうなずいた。バックミラーで僕を見ることなく、そのまま発車した。

車内は妙に暖かかった。エアコンの音だけが流れている。ラジオはついていない。

池袋まで二十分くらいかかったと思う。道路が広く、車線も多くなったところで、ふと気づいた。

この道、違うんじゃないか。

普段乗っても絶対通らないルートを走っている。むしろ池袋とは逆方向のようにも感じた。

「すみません、ちょっと道が違うような」

運転手はバックミラーも見ずに答えた。

「はい、そうですよ」

何のことだか分からなかったが、それ以上は言わなかった。深夜の疲れが勝った。

十数分ほど経ったと思う。窓の外を見ると、高速道路のガードレールが走っていた。

高速に乗っている。

「ちょっと、これは」

「はい、高速です」

「どうしてこんなところを——」

ここで初めて、料金メーターを確認した。

表示された数字は、すでに一万三千円を超えていた。

「待ってください、降ります」

「すみません、今は降りられません」

「どういうことです」

運転手はついにバックミラーを直視した。

その瞳が、おかしい。瞳孔が開きすぎていて、黒い部分がほとんどなかった。

「あと少しです」

車が合流地点に入った瞬間、僕は気づいた。

このタクシー、外灯がないのだ。

窓から見える街並みに、電気が一つもついていない。ビルはすべて暗い。信号機もない。高速道路の照明さえ消えている。

まるで、この世界だけが時間から切り離されたように。

「停めてください。今すぐ、降りさせていただきます」

僕はドアのハンドルに手をかけた。

動かなかった。

「降りる時は、お支払いを」

運転手がポケットから取り出したのは、札束ではなかった。

古い、紙切れのようなものだった。表には数字が書いてある。一万三千円。

メーターの表示と全く同じ数字だ。

「これ、ください」

運転手が紙切れを僕の膝の上に置いた。その時、メーターの数字が、ゆっくりと増えていった。

一万三千一百円。一万三千二百円。

「やめてください。降りるんですから」

「あと少しです」

車はどんどん走っていく。外は暗い。暗い。暗い。

僕は窓を割ろうとした。窓ガラスは、何かに覆われていて、叩いても割れなかった。

その時、メーターの数字が止まった。

一万三千八百円。

「着きました」

窓の外には、見覚えのある建物があった。

山手通り沿いのハイツ。

正確に、僕が住んでいる部屋の場所だった。

「ありがとう」

僕は逃げるように降りた。振り返らなかった。

部屋に入っても、手が震えて止まらなかった。

次の日、新聞の隅に小さな記事が載っていた。

「先週、山手通りでタクシーが暴走し、ガードレールに突っ込む事故が発生。運転手は意識不明。車内から古い紙切れが多数発見された」

紙切れの裏に書かれていた数字を、記者が一つ一つ書き残していた。

一万三千八百円。

その数字が、僕のメーターの表示と全く同じだった。

それから一週間経った。

昨夜、インターホンが鳴った。

モニターを見ると、ベロラインのタクシーが、僕の前の駐停車スペースに停まっていた。

運転席の窓から、白い紙切れが少し見えた。

まだメーターは走っているのか。

それとも、僕が支払うのを待っているのか。

インターホンは、今も鳴り続けている。