母が死んで、三ヶ月が経った。

四十九日を過ぎ、遺品整理も一通り終えた。残ったのは、小さなワンルームに漂う静けさだけだった。

あの夜のことは、今でもはっきりと覚えている。

残業を終えて帰宅した私は、玄関のドアを開けた瞬間、息が止まった。

母の香水の匂いがした。

シトラスにムスクを混ぜたような、甘くて柔らかい香り。母が三十年間使い続けた香水の匂い。どこかで嗅ぐたびに、母のことを思い出した、あの匂い。

気のせいだ、と思った。

悲しみが見せた幻のようなものだ、と自分に言い聞かせた。

でも、次の日も、その次の日も、匂いは消えなかった。

むしろ、日に日に濃くなっていくような気がした。

最初はリビングだけだった。それが、寝室に広がり、浴室にまで及ぶようになった。

念のため、母の遺品をもう一度確認した。香水はすでに処分していたはずだった。引き出しの奥を漁っても、見つかるのは古い手帳や写真ばかりで、香水の瓶は影も形もなかった。

それでも匂いは続いた。


ある朝、目が覚めると、匂いはいつになく強かった。

まるで母が枕元に立っているかのような濃さだった。

声に出したわけではない。ただ心の中で呟いた。

——お母さん?

すると、匂いがゆっくりと動いた。

そう表現するしかない。匂いが、部屋の隅の方へと、流れるように移動したのだ。

私は吸い寄せられるように立ち上がり、その方向へ歩いた。

押し入れの前で、匂いが止まった。

開けると、奥の段ボールの隙間から、白い煙のようなものが漏れていた。いや、煙ではない。見えるはずのない匂いが、なぜか見えた気がしただけだった。

段ボールをひとつひとつ開けていくと、一番奥に、見覚えのない小瓶があった。

乳白色のガラスの瓶。中身は透明な液体。どう見ても香水だった。

乳白色の小瓶

それは最初から、そこにあったのだろうか

手に取った瞬間、匂いが爆発するように広がった。

涙が出た。

母の匂いがした。

蓋を開けると、すっと匂いが引いた。代わりに、何か冷たいものが指先を這い上がってくるような感覚があった。

やめろ。

直感が叫んだ。でも、もう遅かった。


その夜から、夢を見るようになった。

真っ暗な廊下を、匂いを追いかけて歩く夢だった。

廊下はどこまでも続いていた。前方のどこかに、母がいる気がした。呼びかけても声は出なかった。走ろうとしても足が動かなかった。

夢の中で、私はただ歩き続けた。

朝、目が覚めても、疲れが取れなかった。

一週間後、会社の同僚に言われた。

「最近、すごく痩せたね。大丈夫?」

鏡を見ると、確かに頬がこけていた。目の下に、深い隈ができていた。

でも、匂いを追うのをやめることができなかった。

毎晩、夢の中の廊下を歩いた。少しずつ、その廊下の先が見えるようになってきた。

遠くに、光があった。

その光の前に、誰かが立っていた。小柄な体型。丸めた背中。見覚えのある白髪。

暗い廊下の先の影

振り返ってほしいと思いながら、同時に振り返ってほしくなかった

——お母さん!

声が出た。

夢の中で初めて、声が出た。

その人影がゆっくりと振り返った。

そこで、必ず目が覚めた。

決して顔は見えなかった。


ある夜、私は夢の中で廊下を歩きながら気がついた。

廊下の壁に、写真が飾られている。

私の写真だった。

子供の頃の私。学生の頃の私。就職したての私。

それらの写真には見覚えがあった。実家の廊下に飾られていたものと同じだった。

でも最後の一枚だけ、違った。

壁に並ぶ写真

最後の額縁だけ、光り方が違った

そこに写っていたのは、やつれた女が、暗い部屋の中で、小瓶を手に持って立っている姿だった。

顔がこちらを向いていた。

それが今の私だった、と気づいたとき。

廊下の奥の光が、急速に近づいてきた。

そして——

今朝目が覚めたとき、部屋に匂いはなかった。

押し入れに戻ると、小瓶は消えていた。

代わりに、あの乳白色のガラスが、ほんの少しだけ曇っていた。

内側から。


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