残り香
2026年03月16日
母が死んで、三ヶ月が経った。
四十九日を過ぎ、遺品整理も一通り終えた。残ったのは、小さなワンルームに漂う静けさだけだった。
あの夜のことは、今でもはっきりと覚えている。
残業を終えて帰宅した私は、玄関のドアを開けた瞬間、息が止まった。
母の香水の匂いがした。
シトラスにムスクを混ぜたような、甘くて柔らかい香り。母が三十年間使い続けた香水の匂い。どこかで嗅ぐたびに、母のことを思い出した、あの匂い。
気のせいだ、と思った。
悲しみが見せた幻のようなものだ、と自分に言い聞かせた。
でも、次の日も、その次の日も、匂いは消えなかった。
むしろ、日に日に濃くなっていくような気がした。
最初はリビングだけだった。それが、寝室に広がり、浴室にまで及ぶようになった。
念のため、母の遺品をもう一度確認した。香水はすでに処分していたはずだった。引き出しの奥を漁っても、見つかるのは古い手帳や写真ばかりで、香水の瓶は影も形もなかった。
それでも匂いは続いた。
ある朝、目が覚めると、匂いはいつになく強かった。
まるで母が枕元に立っているかのような濃さだった。
声に出したわけではない。ただ心の中で呟いた。
——お母さん?
すると、匂いがゆっくりと動いた。
そう表現するしかない。匂いが、部屋の隅の方へと、流れるように移動したのだ。
私は吸い寄せられるように立ち上がり、その方向へ歩いた。
押し入れの前で、匂いが止まった。
開けると、奥の段ボールの隙間から、白い煙のようなものが漏れていた。いや、煙ではない。見えるはずのない匂いが、なぜか見えた気がしただけだった。
段ボールをひとつひとつ開けていくと、一番奥に、見覚えのない小瓶があった。
乳白色のガラスの瓶。中身は透明な液体。どう見ても香水だった。
それは最初から、そこにあったのだろうか
手に取った瞬間、匂いが爆発するように広がった。
涙が出た。
母の匂いがした。
蓋を開けると、すっと匂いが引いた。代わりに、何か冷たいものが指先を這い上がってくるような感覚があった。
やめろ。
直感が叫んだ。でも、もう遅かった。
その夜から、夢を見るようになった。
真っ暗な廊下を、匂いを追いかけて歩く夢だった。
廊下はどこまでも続いていた。前方のどこかに、母がいる気がした。呼びかけても声は出なかった。走ろうとしても足が動かなかった。
夢の中で、私はただ歩き続けた。
朝、目が覚めても、疲れが取れなかった。
一週間後、会社の同僚に言われた。
「最近、すごく痩せたね。大丈夫?」
鏡を見ると、確かに頬がこけていた。目の下に、深い隈ができていた。
でも、匂いを追うのをやめることができなかった。
毎晩、夢の中の廊下を歩いた。少しずつ、その廊下の先が見えるようになってきた。
遠くに、光があった。
その光の前に、誰かが立っていた。小柄な体型。丸めた背中。見覚えのある白髪。
振り返ってほしいと思いながら、同時に振り返ってほしくなかった
——お母さん!
声が出た。
夢の中で初めて、声が出た。
その人影がゆっくりと振り返った。
そこで、必ず目が覚めた。
決して顔は見えなかった。
ある夜、私は夢の中で廊下を歩きながら気がついた。
廊下の壁に、写真が飾られている。
私の写真だった。
子供の頃の私。学生の頃の私。就職したての私。
それらの写真には見覚えがあった。実家の廊下に飾られていたものと同じだった。
でも最後の一枚だけ、違った。
最後の額縁だけ、光り方が違った
そこに写っていたのは、やつれた女が、暗い部屋の中で、小瓶を手に持って立っている姿だった。
顔がこちらを向いていた。
それが今の私だった、と気づいたとき。
廊下の奥の光が、急速に近づいてきた。
そして——
今朝目が覚めたとき、部屋に匂いはなかった。
押し入れに戻ると、小瓶は消えていた。
代わりに、あの乳白色のガラスが、ほんの少しだけ曇っていた。
内側から。
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