残業で疲れ果て、私はいつもよりずっと遅い時間の電車に乗った。時計の針は午前一時を指している。終電から三十分も遅れた、存在しないはずの「幽霊列車」だ。

車内はガラガラで、私以外には、少し離れた席でうつむいているスーツ姿の男が一人いるだけだった。男の姿勢は不自然なほど動かない。呼吸をしているようにも見えなかった。

ガラガラの車内

どこか不気味な雰囲気の座席

蛍光灯がチカチカと不規則に明滅し、その度に座席の影が不気味に踊る。車内には消毒液とも、何か腐ったものとも判別できない、甘ったるい異臭が漂っていた。喉の奥が焼けるような不快感が這い上がってくる。

「次は……」

車内アナウンスの音声が、不自然に途切れた。ノイズ混じりの、どこか奇妙な声だった。いつもなら耳慣れた駅名が呼ばれるはずのタイミングで、ただザーッという静寂だけが響く。その音の奥底で、誰かの泣き声のようなものが混ざっている気がした。

私はスマホから目を離し、窓の外を見た。見慣れた街灯の光はなく、ただ果てしない闇が広がっている。窓ガラスに映る自分の顔が、妙に青白く、まるで死人のようだった。

ガタン、と電車が不自然な揺れを見せ、ゆっくりと減速し始めた。停まるべき駅など、この区間にはないはずだった。ブレーキの軋む音が、断末魔の叫びのように響き渡る。

「え……?」

ドアが開き、冷たい風が車内に流れ込んできた。いや、冷たいだけではない。風には湿気が含まれ、土の匂い、カビの匂い、そして何か生臭い——死臭に似た匂いが混ざっていた。思わず口を手で押さえる。

プラットホームの看板には、見たこともない漢字が書き殴られていた。読むことすらできない、歪んだ文字。まるで何かが爪で引っ掻いたような、血痕のような赤黒い色をしていた。よく見ると、その文字の一つ一つが人間の顔の形をしている。口を大きく開けて、何かを訴えかけている——。

歪んだ看板の駅

この世のものとは思えない光景

そして、遠くから足音が聞こえてきた。ヒタ、ヒタ、ヒタ……。

それは人間の歩く音ではなかった。湿った泥の上を引きずるような、異様な音。複数の足音が重なり合い、ズルズルと何かを引きずる音も混ざっている。徐々に近づいてくる。心臓が痛いほど激しく脈打つ。

私は息を潜め、ドアが閉まるのを祈った。だが、発車ベルは一向に鳴らない。それどころか、車内の蛍光灯が一つ、また一つと消えていき、闇が這うように迫ってくる。

振り返ると、あのスーツの男がゆっくりと顔を上げた。その顔には目も鼻も口もなく、ただのっぺらぼうの白い皮膚が張り付いているだけだった。

「……乗るなら、早く」

男の声は、その顔のどこからともなく響いてきた。まるで腹話術のように。

「何が……何を言って……」

私が震える声で問うと、男はゆっくりと窓の外を指さした。

暗闇の奥から、無数の白い手が、車両に向かって伸びてくるのが見えた。それらの手は骨と皮だけで、爪は異様に長く伸び、関節が不自然な方向に曲がっている。

無数の手

手はドアの少し手前まで迫っていた

「来るな、来ないで!」

私は悲鳴を上げた。手がドアの縁を掴む。ギチギチと金属が軋む音がする。指先から黒い液体が滴り落ち、床で煙を上げながら溶けていく。

その時、男が私の腕を掴んだ。氷のように冷たい手。力は異様に強く、骨まで砕かれそうだった。

「座っていろ。降りたら、あいつらの仲間入りだ」

男の言葉と同時に、ドアがガシャンと閉まった。外の手が何本か挟まれ、ドアの隙間から黒い血が噴き出す。だが手は退かず、爪でガラスを引っ掻き続ける。キィィィという甲高い音が鼓膜を突き刺す。

電車がゆっくりと動き出した。窓の外で、取り残された者たちの絶叫が響く。それは言葉ではなく、ただの咆哮だった。

「お前は運が良かった」

男が再び俯いた。その背中には、びっしりと何かの手形が付いていた。引っ掻き傷、噛み跡、焼けただれた痕。

「俺は……もう三百回、この電車に乗っている。降りることができない。終点がないんだ、この路線には」

私は言葉を失った。男の足元を見ると、靴底が完全にすり減り、素足が見えていた。その足は腐りかけ、黒ずんでいた。

電車は再び闇の中を走り続ける。次の駅はいつ来るのか。それとも——。

私は目を閉じた。もう考えたくなかった。ただ、この電車から降りられることを祈るしかない。

どれくらい時間が経ったのか分からない。気がつくと、車内アナウンスが流れていた。

「次は、○○、○○です」

聞き慣れた駅名。私の最寄り駅だ!

「やった、降りられる!」

私は立ち上がった。ドアの前に駆け寄る。電車が減速し、見慣れたホームの光景が見えた。

だが、ドアが開く瞬間、男の声が背後から響いた。

「……本当に、降りていいのか?」

振り返ると、男の顔に初めて表情が現れた。それは深い哀れみだった。

「お前の世界は……本当にそこにあるのか?」

その言葉の意味を考える間もなく、ドアが開いた。私は飛び出した。

冷たい空気。見慣れたホーム。改札の光。全てが現実だ。夢じゃない。

私は安堵のため息をついた。

そして——気づいた。

ホームには、誰もいない。午前一時を過ぎているとはいえ、駅員の姿すらない。自動改札の電気も消えている。

「おかしい……」

改札に向かって歩き出す。だが、どれだけ歩いても改札に辿り着かない。ホームが無限に続いているかのように、出口が遠ざかっていく。

背後で、ガタンという音がした。

振り返ると、あの電車が再び停車していた。ドアが開き、あの男が立っている。

「言っただろう。終点はないんだ」

「……嘘だ」

「お前はもう、乗った時点で戻れない。俺たちと同じだ」

男が指さす方向を見ると、ホームのベンチに、何人もの人影が座っていた。全員が俯き、動かない。その中には、見覚えのある服を着た人もいた。去年、この駅で行方不明になった人——。

私は震えながら、電車へと戻った。他に選択肢はなかった。

座席に座ると、男が隣に座った。

「慣れるさ。いずれ、時間の感覚もなくなる。そうしたら楽になる」

電車が再び動き出した。闇の中へ。

窓ガラスに映る私の顔は、もう表情がなかった。

そして、次の駅で。

新しい乗客が乗ってきた。スーツ姿の若い女性。疲れ果てた様子で座席に座る。

私は俯いたまま、心の中で呟いた。

『次は、お前の番だ』

暗闇を走る電車

終わりのない路線。終わりのない恐怖。永遠に彷徨い続ける魂たち。