朝のゴミ出しで、鏡に映る自分が0.5秒遅れて動いた話
2026年08月24日
去年の冬、東京・世田谷の古い集合住宅に引っ越してきた知人の男性(28歳、IT企業勤務)の話だ。
引っ越し直後、彼は朝のルーティンとして洗面所の鏡の前で顔を洗い、歯を磨き、ゴミ袋を玄関に持ち出すという単純な動きを繰り返していた。朝6時半、電車の時間までちょうど40分。無駄のない時間配分だった。
ある月曜日の朝、彼は鏡の前で顔を洗っていた。
冷水が頬を伝う。タオルで顔を拭く。鏡に映る自分がタオルを顔に押し当てている。
その時、彼は気づいた。
鏡の中の自分が、タオルを顔から下ろすのが、自分より0.5秒くらい遅れていることに。
「疲れか」と彼は思った。前日は終電を逃して会社で徹夜し、4時間しか寝ていなかった。目の前がぼやけているのは無理もない。
ゴミを捨てに玄関に戻り、戻ってきてまた鏡を見ると、今度は何もなかった。普通通りに動く。鏡は鏡だ。
しかしその翌日から、その現象は頻繁になった。
鏡に映る自分が、実際の自分より0.3〜1秒遅れて動き出す。
歯を磨き始めてから歯ブラシが動き始めるまで。手を上げているのに鏡の手の動きが追ってから。鏡を見るたびに、自分の体が自分の意思に追いついていない。
「これがもし本物の鏡なら、遅延なんて起きない」と彼は友人に電話で相談した。
「いや、もしかしてそれ、鏡じゃなくて…」
友人はそれ以上言えなかった。電話の向こうで息を呑む音が聞こえただけだった。
彼が自分で調べて分かったことがある。
「遅延」が起きる時間帯には法則があった。
毎週火曜と木曜の午後10時以降。そして毎週月曜と水曜の朝6時40分〜6時50分。
鏡の前でじっとしていると、鏡の中の自分が、ふとこちらを見上げていることに気づく。
彼が動いていない時、鏡の中の自分だけが動いている。
朝6時47分、彼は鏡の前で立ち止まった。
動かない。何もしない。
鏡の中の自分が、ゆっくりと口を開けた。
「もう気づいたの?」
その声は、彼の声だった。
それ以来、彼は朝ゴミを出す時に、必ず両手で顔を覆ってから出るようになった。
「もし鏡の中の自分が、自分の動きをコピーしているのではなくて、自分の方が鏡の中の自分の動きをコピーしているなら…」
朝6時47分、鏡に映る自分の手が、まだ動いていないのに、彼の指先が勝手に動き始めた。