去年の冬、東京・世田谷の古い集合住宅に引っ越してきた知人の男性(28歳、IT企業勤務)の話だ。

鏡に映る自分

引っ越し直後、彼は朝のルーティンとして洗面所の鏡の前で顔を洗い、歯を磨き、ゴミ袋を玄関に持ち出すという単純な動きを繰り返していた。朝6時半、電車の時間までちょうど40分。無駄のない時間配分だった。

ある月曜日の朝、彼は鏡の前で顔を洗っていた。

冷水が頬を伝う。タオルで顔を拭く。鏡に映る自分がタオルを顔に押し当てている。

その時、彼は気づいた。

鏡の中の自分が、タオルを顔から下ろすのが、自分より0.5秒くらい遅れていることに。

「疲れか」と彼は思った。前日は終電を逃して会社で徹夜し、4時間しか寝ていなかった。目の前がぼやけているのは無理もない。

ゴミを捨てに玄関に戻り、戻ってきてまた鏡を見ると、今度は何もなかった。普通通りに動く。鏡は鏡だ。

しかしその翌日から、その現象は頻繁になった。

鏡に映る自分が、実際の自分より0.3〜1秒遅れて動き出す。

歯を磨き始めてから歯ブラシが動き始めるまで。手を上げているのに鏡の手の動きが追ってから。鏡を見るたびに、自分の体が自分の意思に追いついていない。

「これがもし本物の鏡なら、遅延なんて起きない」と彼は友人に電話で相談した。

「いや、もしかしてそれ、鏡じゃなくて…」

友人はそれ以上言えなかった。電話の向こうで息を呑む音が聞こえただけだった。

彼が自分で調べて分かったことがある。

「遅延」が起きる時間帯には法則があった。

毎週火曜と木曜の午後10時以降。そして毎週月曜と水曜の朝6時40分〜6時50分。

鏡の前でじっとしていると、鏡の中の自分が、ふとこちらを見上げていることに気づく。

彼が動いていない時、鏡の中の自分だけが動いている。

朝6時47分、彼は鏡の前で立ち止まった。

動かない。何もしない。

鏡の中の自分が、ゆっくりと口を開けた。

「もう気づいたの?」

その声は、彼の声だった。

それ以来、彼は朝ゴミを出す時に、必ず両手で顔を覆ってから出るようになった。

「もし鏡の中の自分が、自分の動きをコピーしているのではなくて、自分の方が鏡の中の自分の動きをコピーしているなら…」

朝6時47分、鏡に映る自分の手が、まだ動いていないのに、彼の指先が勝手に動き始めた。