ジムと鏡

知人の話。彼の名前は田中(仮称)、二十八歳、港区のマンションに一人暮らし。

彼が住むマンションには、十八階に共用ジムがある。マシンが三台、ベンチが二つ、一面のミラー。平日の深夜二時くらいに行くと、いつも彼一人きり。

「最初は全然気にならなかったんだ」

彼は毎週火曜日と木曜日の深夜二時、ジムに通っていた。その時間なら誰もいない。静かに、自分のペースでできる。

「でも、三週間前くらいから、何かおかしいと感じるようになった」

鏡に映る自分の腕が、少しだけ遅れて動くのだ。

彼がダンベルを上げるとき、鏡の自分もダンベルを上げる。でも、実際の手がトップに達してから、鏡の自分の手がトップに達する。その間が、ちょうど0.5秒くらい。

「最初は、疲れてきたから鏡の見え方がおかしくなったのかとか、鏡の歪みかなって思ってた」

でも、毎日同じ。同じマシン、同じ時間、同じ鏡。鏡の自分の動きが、常に0.5秒遅れる。

「もっとよく見たら、動きがずれてるだけじゃなくて、表情も違うことに気づいた」

彼が疲れた顔でベンチプレスをしているのに、鏡の自分は笑っている。

「いや、笑っているというか……違う。口角が上がってる。でも目の周りは全然弛んでない。筋肉の動きが、表情と合ってない」

彼は鏡を見ないようにした。鏡なしでトレーニングできるマシンだけを使うようにした。でも、ジムは一面ミラーだ。目を瞑っても、反射した光が視界に入る。

「ある夜、ベンチプレスをしていて、ふと鏡の端に視線がいったんだ」

鏡の自分が、彼とは違うポーズを取っていた。

彼はベンチに横たわっている。でも鏡の自分は、立っている。

「一瞬、何が起きたのか分からなかった。頭が真っ白になった」

鏡の自分は、彼を見下ろすように立って、ゆっくりと微笑んでいた。

彼はその日、ジムを辞めた。

でも、問題はそこからだった。

「次の日、鏡の前で歯を磨いていて、ふと気づいたんだ」

鏡の自分が、0.5秒遅れて歯を磨いている。

「ジムじゃなかった。家の浴室の鏡だ。ジムでなくても、いつでも、どこでも」

彼は鏡を見ないように生活している。スマホの画面も黒くして、反射しないようにしている。

「でも、たまにふと鏡を見てしまうんだ。そして、また鏡の自分が、少しだけ違う動きをするのが見える」

「もう、鏡を見るのが怖い」

彼は最後にこう言った。

「鏡の自分が、今も笑ってるんだよ。僕が話している間中、ずっと」