山の呼び声
2026年03月06日
山道は、見慣れているはずだった。
父と何十回も登った、奥多摩の稜線コース。道幅は狭いが標識が整備されていて、迷いようがない。そのはずだった。
父が死んで三年が経つ。
登山好きだった父は、定年後に本格的に山を始め、六十代で百名山の半分を踏破した。私はその付き合いで、半ば義務感を持ちながら、時に楽しみを感じながら、父の背中を追って山を歩いた。その父が、突然逝った。心筋梗塞だった。山ではなく、自宅の居間で倒れた。「山で死ねたら本望だった」と父はよく冗談のように言っていたが、神様は違う場所を選んだ。
だから今日、この山に来たのは、ある種の巡礼のつもりだった。
単独行は心細かったが、天気は快晴で風もなく、装備も万全だった。七月の朝、登山口に立った時には、清々しい気持ちさえあった。
木漏れ日が届かない深い森の中で、道は霧に溶けていく。
山頂に向かう分岐を左に折れ、しばらく歩いた時だった。
「拓也」
自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
振り返ったが、誰もいない。木々の間を風が通り抜け、葉が揺れているだけだ。
空耳だ、と思った。父もよく、この登りで私を呼んだ。
「拓也、ゆっくりでいいから」
「拓也、あの稜線を見てみろ」
遠い記憶が響いたのだろう。そう自分に言い聞かせ、歩き続けた。
しかし一時間後、私は立ち止まらざるを得なかった。
地図に書かれているはずの分岐点が、見当たらない。いつも目印になる鉄製の標識柱が、ない。道は確かに続いているが、地形が微妙に違う。
GPSを確認した。画面に表示された自分の位置は、正規ルートから三百メートル近く外れていた。
いつの間にか、コースを外れていた。
引き返そうとした。
「こっちだ」
また声が聞こえた。今度は空耳では済ませられない明瞭さだった。男の声。低く、穏やかで、どこか懐かしい声。前方を見ると、踏み分け道のようなものが続いている。下草が踏みしめられ、枝が折られている。誰かが通った跡だ。
「こっちだよ、拓也」
私は、歩き出した。
止めるべきだった。GPSで正規ルートに戻るべきだった。でも、足が動いた。
踏み分け道を進むにつれ、木々が深くなっていった。日差しが遮られ、空気がひんやりとしてくる。鳥の声が消え、風の音だけが残る。
湿った土の上で、足が止まった。
見覚えのある形の、古い靴跡が、奥へと続いていた。
古い靴跡があった。
かかとに深い切れ込みが入った、特徴的な形の登山靴の跡。
私は、その靴を知っていた。父が長年愛用していた使い込んだキャラバンシューズ。かかとの外側が擦り切れて修理した時に、不格好な切り込みが入ってしまった靴。父は「まあ、愛嬌だ」と言って最後まで履き続けた。
そんなことがあるはずがない。
でも、同じ靴跡が点々と、奥へと続いている。
「父さん……?」
声が出た。
返事はなかった。
それでも、靴跡の続く方向へ歩いた。
木の根が道を塞ぎ、枝が顔に当たった。斜面は急になり、息が切れる。でも私は歩き続けた。気がつけば、どれだけ歩いたかわからなくなっていた。時計を見ると、午後四時を過ぎていた。登山口を出てから八時間近く経っている。
日が傾き始めていた。
正常な判断ができる自分なら、今すぐビバークの準備を始めるべき時間だ。しかし、私は止まれなかった。靴跡が、続いている。父の声が、時折聞こえる。
「もうすぐだから」
日没の少し前、木々が開けた場所に出た。
いかなる地図にも記されていない、忘れられた祭壇。石碑の前に、人の影があった。
そこには、石積みがあった。
人の腰ほどの高さに積まれた、苔むした石の台。その上に、古びた石碑が立っていた。文字はほとんど消えかかっているが、辛うじて「山」の一字が読み取れた。
石碑の前に、誰かが座っていた。
後ろ姿だった。私と同じような山ウェアを着た、白髪混じりの男の人。
「父さん……?」
歩み寄ろうとした瞬間、男が振り向いた。
見知らぬ顔だった。いや、違う。見知らぬはずなのに、どこか知っている顔。
「ようやく来たな」
男は言った。声は風のように低く、どこからともなく響く。
「俺のことを覚えているか」
私は黙っていた。
「俺はお前の父の父の父の、さらに前から、この山にいる。人は俺を山の神と呼んだこともある。鬼と呼んだこともある。どちらでもない。俺はただ、ここにいる。ずっと、ここにいる」
「……何が目的ですか」
「仲間が欲しかっただけだ。長い年月、ここにいる。もう話し相手も、待つものもない。お前の父も同じことを言ったから、呼んだ」
冷気が体を包んだ。
「父は……どこにいるんですか」
男は石積みの向こうを指差した。
そこに、もう一人、背中を向けた人間が座っていた。
「父さん!」
駆け寄ろうとした。
「拓也、来るな」
父の声がした。振り向かないまま、父の背中が言った。
「帰れ。今すぐ、引き返せ」
「でも——」
「俺はもうここから出られない。お前まで同じになるな。GPSをつけろ。登山口に向かって、一直線に歩け。振り返るな。声が聞こえても、振り返るな」
手が震えた。
「父さん」
「早く行け。夜になると、出られなくなる」
西の空がオレンジから紫に変わり始めていた。
私は走った。枝が顔を叩いた。根につまずいて転んだ。膝を擦りむいて、それでも走った。GPSの示す方向だけを信じて、ひたすら走り続けた。
「拓也」
背後から声が聞こえた。父の声と、あの男の声が混ざったような声だった。
振り返らなかった。
どれだけ走ったかわからない。気がつくと、見知った標識柱が目の前にあった。正規ルートに戻っていた。そのまま走り続け、夜の帳が完全に降りる直前に、登山口に着いた。駐車場に止まっていた自分の車のドアにもたれかかって、しばらく動けなかった。
翌日、家に帰ってから、父の遺品を整理している箱を引っ張り出した。
古い登山靴が入っていた。
かかとに、深い切れ込みが入った靴。
底を見ると、泥がついていた。乾いた後も残っている、新しい泥の跡が。
私は、その靴をゴミ袋に入れた。
そしてその夜、夢を見た。
石積みの前で、白髪混じりの男が笑っている夢を。
その隣に、父が座っていた。
父は、振り向かなかった。
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