名前を喰らうもの
2026年03月05日
最初に異変に気づいたのは、会社の席札だった。
営業部に異動して三ヶ月。毎朝、自分のデスクに向かうたびに目にする、「田中健一」と印刷されたプラスチックの席札。何の変哲もない、白地に黒字のシンプルなもの。
その文字が、薄くなっていた。
じわじわと、文字が消えていく——
最初は日焼けだと思った。窓際の席だし、長く使っていれば文字も褪せる。総務に新しい席札を頼もうとした時、奇妙なことに気づいた。
パソコンを立ち上げ、総務部宛のメールを打とうとした。
「席札の交換をお願いします。名前は——」
キーボードに手を置いたまま、私は固まった。
自分の名前が、思い出せない。
いや、違う。思い出せないのではない。名前を打とうとした瞬間、何かが喉元で詰まるような感覚があった。文字が脳から指先に伝わる寸前で、霧散してしまう。
「田中……たなか……」
声に出してみる。苗字は言える。だが、下の名前が出てこない。
「け……けん……?」
違う。そうじゃない。もっと馴染みのある、生まれた時から呼ばれ続けてきた音があったはずだ。それが、まるで水に溶けた墨のように、輪郭を失っていく。
「大丈夫ですか、田中さん」
隣の席の後輩が、心配そうに覗き込んできた。
「あ、ああ。ちょっと寝不足で」
「そうですか。田中……さん」
後輩の言葉に、微かな違和感を感じた。彼女はいつも私を名字で呼ぶ。だが今日は、名字の後に妙な間があった。まるで、何かを言いかけて飲み込んだような。
「私の下の名前、覚えてる?」
思わず聞いてしまった。後輩は首を傾げる。
「えっと……すみません、なんでしたっけ」
背筋が凍った。
私と彼女は毎日顔を合わせている。先週、一緒にプロジェクトを完遂したばかりだ。報告書には、私のフルネームが何度も記載されている。それなのに。
「ちょっと待って」
私は自分のデスクの引き出しを開けた。名刺入れを取り出し、一枚抜く。
「株式会社〇〇 営業部 田中」
名字の後は、空白だった。印刷されていないのではない。文字があったはずの場所が、不自然に白く浮いている。消しゴムで擦り消されたように。
慌てて社員証を確認する。
「田中 」
やはり、下の名前がない。写真の横、名前が記載されているはずの場所は、まるで最初からそこに何も書かれていなかったかのように、つるりと平らだった。
その夜、私は実家に電話をかけた。
「母さん、俺の名前、フルネームで言ってみて」
『え?どうしたの急に……田中……たなか……あれ?』
電話の向こうで、母の声が揺らいだ。
『おかしいわね。なんだったかしら、あなたの……ほら、産まれた時に、お父さんと一生懸命考えた……』
『何の話だ?』
父の声が背後から聞こえる。
『あなた、この子の名前、覚えてる?』
『名前?ああ、うちの息子は田中……田中の……おい、なんだったかな』
私は電話を切った。指先が震えている。
そもそも、私は自分の名前をどうやって思い出していたのか。健一?賢一?謙一?どれも違う気がする。いや、もしかしたらどれかが正解なのかもしれない。だが、それが「自分の名前だ」という確信が持てない。
鏡を見た。
見慣れたはずの顔が、他人のものに見える——
そこには、見慣れた自分の顔があった。だが、どこか焦点が合わない。まるで、自分が自分であるという確証が、するりと指の間をすり抜けていくような感覚。
「俺は、誰だ」
鏡に向かって呟いた。鏡の中の男も同じ言葉を紡ぐ。だが、その口の動きが、ほんの少しだけ遅れているように見えた。
その夜、奇妙な夢を見た。
古い神社の前に立っている。見覚えのない場所だ。鳥居は朱色が褪せ、しめ縄は千切れかけている。だが、夢の中の私は、この場所を「知っている」という奇妙な確信を持っていた。
風もないのに、紙垂が揺れている——
鳥居の向こうには、黒い影がぼんやりと立っていた。人の形をしているが、輪郭が定まらない。霧のように揺らめき、収縮と膨張を繰り返している。
「おまえの名前を、いただいた」
声が聞こえた。耳からではない。頭蓋骨の内側を、直接振動させるような響き。
「名前とは、存在の錨だ。それを失えば、おまえは何者でもなくなる」
「返せ」
私は叫んだ。
「返してくれ。俺の名前を」
影が笑った。少なくとも、笑っているような気配がした。
「返す?もう遅い。おまえの名前は、もう半分以上溶けてしまった。あと数日もすれば、おまえという存在そのものが、この世界から消えてなくなる」
「なぜだ。なぜ俺なんだ」
「おまえが呼んだのだ」
影の言葉に、私は言葉を失った。
「忘れたか。十五年前。この神社の前で、おまえは願った。『違う人間になりたい』と。辛い受験勉強から逃げたくて、厳しい父親から解放されたくて、自分ではない誰かになりたいと願った。その願いを、私が叶えてやる」
記憶が蘇る。高校三年の夏。進路に悩み、親との関係に疲れ果てていた頃。祖父母の家に帰省した時、裏山にあった古い神社で、確かに私はそう願った。
でも、あれはただの——
「ただの愚痴?ただの独り言?言葉にした時点で、それは言霊となる。願いとなる。契約となる」
影が一歩、近づいてきた。
「十五年かけて、ゆっくりとおまえの名前を溶かしてきた。最初は周囲の記憶から。次に記録から。そして最後に、おまえ自身の記憶から。全てが消えた時、おまえという存在は、この世界に『最初からいなかった』ことになる」
目が覚めた。
部屋は暗かった。時計を見ると、午前三時。寝汗でシャツが肌に張り付いている。
夢だ。ただの悪夢だ。
そう思いながら、私は洗面所に向かった。
蛇口をひねり、顔を洗う。タオルで顔を拭き、鏡を見上げた瞬間——
悲鳴を上げそうになった。
鏡に映っているのは、確かに私の体だ。私の着ているシャツ、私の髪型、私の手。
だが、顔がない。
正確には、顔はある。だが、目も鼻も口もない、のっぺらぼうの肌が張り付いているだけだ。
「うわああああ!」
私は鏡を叩いた。何度も何度も。拳が痛むのも構わず、目の前の光景を否定しようとした。
「違う、違う、俺はここにいる!俺は——俺は——」
名前が出てこない。
苗字も。下の名前も。何一つ。
私は、いつから「田中」だと思い込んでいたのだろう。もしかしたら、それすらも本当の名前ではなかったのかもしれない。
翌日、会社に行った。
誰も私を見なかった。
正確には、見えていないようだった。廊下ですれ違う同僚たちは、私の横を素通りしていく。私のデスクには、別の社員が座っていた。
「すみません、そこ、私の席なんですが」
声をかけても、反応がない。まるで、私の声が聞こえていないかのように。
「おい!聞いてるのか!」
肩を掴もうとした。
手が、すり抜けた。
私の手が、相手の肩をすり抜けて、空を切った。
「……嘘だろ」
足元を見る。床に、影がない。私だけが、影を持たない存在になっている。
窓ガラスに映る自分を見た。そこには何も映っていなかった。外の景色が、私の体があるはずの場所を透過して見えている。
名前が消えれば、存在も消える——
「助けて」
誰にも聞こえない声で、私は叫んだ。
「誰か、俺の名前を呼んでくれ」
だが、誰も私を知らない。
誰も私の名前を覚えていない。
記録にも、記憶にも、私は存在しない。
最後に残ったのは、この日記だけだ。
名前のない私が、名前を失う過程を記した、この文章だけ。
これを読んでいるあなたへ。
もし、あなたが「違う人間になりたい」と願ったことがあるなら。
それを口にした場所を、思い出してほしい。
古い神社の前ではなかったか。
人気のない山道の途中ではなかったか。
そして、最近、自分の名前を思い出しにくくなっていないか。
周りの人に、フルネームで呼ばれる機会が減っていないか。
名刺や書類に、自分の名前がきちんと印刷されているか。
確認してほしい。
今すぐに。
私のように、手遅れになる前に——
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Written by GitHub Copilot (Claude Opus 4)