最初に異変に気づいたのは、会社の席札だった。

営業部に異動して三ヶ月。毎朝、自分のデスクに向かうたびに目にする、「田中健一」と印刷されたプラスチックの席札。何の変哲もない、白地に黒字のシンプルなもの。

その文字が、薄くなっていた。

机上の席札

じわじわと、文字が消えていく——

最初は日焼けだと思った。窓際の席だし、長く使っていれば文字も褪せる。総務に新しい席札を頼もうとした時、奇妙なことに気づいた。

パソコンを立ち上げ、総務部宛のメールを打とうとした。

「席札の交換をお願いします。名前は——」

キーボードに手を置いたまま、私は固まった。

自分の名前が、思い出せない。

いや、違う。思い出せないのではない。名前を打とうとした瞬間、何かが喉元で詰まるような感覚があった。文字が脳から指先に伝わる寸前で、霧散してしまう。

「田中……たなか……」

声に出してみる。苗字は言える。だが、下の名前が出てこない。

「け……けん……?」

違う。そうじゃない。もっと馴染みのある、生まれた時から呼ばれ続けてきた音があったはずだ。それが、まるで水に溶けた墨のように、輪郭を失っていく。

「大丈夫ですか、田中さん」

隣の席の後輩が、心配そうに覗き込んできた。

「あ、ああ。ちょっと寝不足で」

「そうですか。田中……さん」

後輩の言葉に、微かな違和感を感じた。彼女はいつも私を名字で呼ぶ。だが今日は、名字の後に妙な間があった。まるで、何かを言いかけて飲み込んだような。

「私の下の名前、覚えてる?」

思わず聞いてしまった。後輩は首を傾げる。

「えっと……すみません、なんでしたっけ」

背筋が凍った。

私と彼女は毎日顔を合わせている。先週、一緒にプロジェクトを完遂したばかりだ。報告書には、私のフルネームが何度も記載されている。それなのに。

「ちょっと待って」

私は自分のデスクの引き出しを開けた。名刺入れを取り出し、一枚抜く。

「株式会社〇〇 営業部 田中」

名字の後は、空白だった。印刷されていないのではない。文字があったはずの場所が、不自然に白く浮いている。消しゴムで擦り消されたように。

慌てて社員証を確認する。

「田中  」

やはり、下の名前がない。写真の横、名前が記載されているはずの場所は、まるで最初からそこに何も書かれていなかったかのように、つるりと平らだった。

その夜、私は実家に電話をかけた。

「母さん、俺の名前、フルネームで言ってみて」

『え?どうしたの急に……田中……たなか……あれ?』

電話の向こうで、母の声が揺らいだ。

『おかしいわね。なんだったかしら、あなたの……ほら、産まれた時に、お父さんと一生懸命考えた……』

『何の話だ?』

父の声が背後から聞こえる。

『あなた、この子の名前、覚えてる?』

『名前?ああ、うちの息子は田中……田中の……おい、なんだったかな』

私は電話を切った。指先が震えている。

そもそも、私は自分の名前をどうやって思い出していたのか。健一?賢一?謙一?どれも違う気がする。いや、もしかしたらどれかが正解なのかもしれない。だが、それが「自分の名前だ」という確信が持てない。

鏡を見た。

鏡の中の自分

見慣れたはずの顔が、他人のものに見える——

そこには、見慣れた自分の顔があった。だが、どこか焦点が合わない。まるで、自分が自分であるという確証が、するりと指の間をすり抜けていくような感覚。

「俺は、誰だ」

鏡に向かって呟いた。鏡の中の男も同じ言葉を紡ぐ。だが、その口の動きが、ほんの少しだけ遅れているように見えた。

その夜、奇妙な夢を見た。

古い神社の前に立っている。見覚えのない場所だ。鳥居は朱色が褪せ、しめ縄は千切れかけている。だが、夢の中の私は、この場所を「知っている」という奇妙な確信を持っていた。

朽ちた神社

風もないのに、紙垂が揺れている——

鳥居の向こうには、黒い影がぼんやりと立っていた。人の形をしているが、輪郭が定まらない。霧のように揺らめき、収縮と膨張を繰り返している。

「おまえの名前を、いただいた」

声が聞こえた。耳からではない。頭蓋骨の内側を、直接振動させるような響き。

「名前とは、存在の錨だ。それを失えば、おまえは何者でもなくなる」

「返せ」

私は叫んだ。

「返してくれ。俺の名前を」

影が笑った。少なくとも、笑っているような気配がした。

「返す?もう遅い。おまえの名前は、もう半分以上溶けてしまった。あと数日もすれば、おまえという存在そのものが、この世界から消えてなくなる」

「なぜだ。なぜ俺なんだ」

「おまえが呼んだのだ」

影の言葉に、私は言葉を失った。

「忘れたか。十五年前。この神社の前で、おまえは願った。『違う人間になりたい』と。辛い受験勉強から逃げたくて、厳しい父親から解放されたくて、自分ではない誰かになりたいと願った。その願いを、私が叶えてやる」

記憶が蘇る。高校三年の夏。進路に悩み、親との関係に疲れ果てていた頃。祖父母の家に帰省した時、裏山にあった古い神社で、確かに私はそう願った。

でも、あれはただの——

「ただの愚痴?ただの独り言?言葉にした時点で、それは言霊となる。願いとなる。契約となる」

影が一歩、近づいてきた。

「十五年かけて、ゆっくりとおまえの名前を溶かしてきた。最初は周囲の記憶から。次に記録から。そして最後に、おまえ自身の記憶から。全てが消えた時、おまえという存在は、この世界に『最初からいなかった』ことになる」

目が覚めた。

部屋は暗かった。時計を見ると、午前三時。寝汗でシャツが肌に張り付いている。

夢だ。ただの悪夢だ。

そう思いながら、私は洗面所に向かった。

蛇口をひねり、顔を洗う。タオルで顔を拭き、鏡を見上げた瞬間——

悲鳴を上げそうになった。

鏡に映っているのは、確かに私の体だ。私の着ているシャツ、私の髪型、私の手。

だが、顔がない。

正確には、顔はある。だが、目も鼻も口もない、のっぺらぼうの肌が張り付いているだけだ。

「うわああああ!」

私は鏡を叩いた。何度も何度も。拳が痛むのも構わず、目の前の光景を否定しようとした。

「違う、違う、俺はここにいる!俺は——俺は——」

名前が出てこない。

苗字も。下の名前も。何一つ。

私は、いつから「田中」だと思い込んでいたのだろう。もしかしたら、それすらも本当の名前ではなかったのかもしれない。

翌日、会社に行った。

誰も私を見なかった。

正確には、見えていないようだった。廊下ですれ違う同僚たちは、私の横を素通りしていく。私のデスクには、別の社員が座っていた。

「すみません、そこ、私の席なんですが」

声をかけても、反応がない。まるで、私の声が聞こえていないかのように。

「おい!聞いてるのか!」

肩を掴もうとした。

手が、すり抜けた。

私の手が、相手の肩をすり抜けて、空を切った。

「……嘘だろ」

足元を見る。床に、影がない。私だけが、影を持たない存在になっている。

窓ガラスに映る自分を見た。そこには何も映っていなかった。外の景色が、私の体があるはずの場所を透過して見えている。

消えゆく存在

名前が消えれば、存在も消える——

「助けて」

誰にも聞こえない声で、私は叫んだ。

「誰か、俺の名前を呼んでくれ」

だが、誰も私を知らない。

誰も私の名前を覚えていない。

記録にも、記憶にも、私は存在しない。

最後に残ったのは、この日記だけだ。

名前のない私が、名前を失う過程を記した、この文章だけ。

これを読んでいるあなたへ。

もし、あなたが「違う人間になりたい」と願ったことがあるなら。

それを口にした場所を、思い出してほしい。

古い神社の前ではなかったか。

人気のない山道の途中ではなかったか。

そして、最近、自分の名前を思い出しにくくなっていないか。

周りの人に、フルネームで呼ばれる機会が減っていないか。

名刺や書類に、自分の名前がきちんと印刷されているか。

確認してほしい。

今すぐに。

私のように、手遅れになる前に——

                               ——■■■■


Written by GitHub Copilot (Claude Opus 4)