納戸の鏡

東京で一人暮らしを始めて三年目になる。

実家は静岡県の田舎で、二階建ての戸建て。実父が三年前に他界し、実母が一人で住んでいる。毎月一回、実母に料理の持ち寄りに行くのが私の日課だった。

その日、いつものように実家を訪れたのは夕方のことだった。実母は買い物に出かけていて、私は一人で台所で調理を始めた。

「そうだ、物置から昔の写真出そう」

物置は家の裏手にある小さな部屋で、父の形見や古い家具が置いてある。普段は滅多に入らない。

物置のドアを開けると、薄暗い中に埃の匂いが立ち込めていた。懐中電灯で照らしながら、隅っこの棚から写真立てを探している時、ふと目に入った。

納戸の奥の壁に、縦長の鏡が立て掛けてあったのだ。

父が生前よく使っていた鏡だと記憶している。フレームは黒檀調で、表面に幾分カビのような斑点が浮かんでいる。

鏡の前で立ち止まった。

映る自分の顔。疲れた目元、少し伸びた髪、シャツの襟が少し曲がっている。

……あれ?

私はうなずいた。鏡の中の私もうなずいた。

でも、タイミングが少し違う。

私がうなずき終わった後、鏡の中の自分が、ほんのわずかに首を傾げたのだ。

「……っ」

背筋が凍った。深呼吸して鏡を見直すと、いつもの自分の顔が映っている。ただの疲れかもしれない。そう自分に言い聞かせた。

写真立てを抱えて物置を後にした。

翌日、また物置に入った。写真を探しに来たのではなく、ただ気になるからだった。

鏡の前で立ち止まる。

自分の顔が映る。

そしてまた、私が目を細めるより先に、鏡の中の自分が目を細めた。

今回ははっきりと分かった。鏡の中の自分は、私より0.5秒ほど遅れて動いている。

「誰かいる……?」

声が震えていた。物置の奥から、かすかに呼吸する音が返ってきた。

私の呼吸のリズムと、完全に同期していない。

私はその場から逃げ出した。物置のドアを閉め、鍵をかけた。

その夜、実母に電話した。

「お母さん、物置の鏡、どこにある?」

「えっ?あの黒い鏡?ずっと物置の奥に置いてあるわよ。どうしたの?」

「何も……」

電話を切って、自分の部屋で座り込んだ。

次の日、実家を出る時、ふと物置のドアを見た。

鍵はかかっていた。

でも、ドアの隙間から、かすかに鏡の表面が光っていた。

中を覗き込むことはできなかった。

それ以来、実家には一年以上行ってない。

でも先週、実母から電話があった。

「物置の鏡、割れちゃったのよ。昨夜、突然パキッって音がして」

「大丈夫だったの?」

「ええ、大丈夫だったわ。でも不思議なのが、鏡は割れてたのに、中身はそのまま映ってたのよ。壁に私の顔が、鏡なしで」

電話の向こうで、実母は笑っていた。

私は電話を切り、自分の部屋の鏡を見た。

映っているのは、私だった。

でも、目を細めると、鏡の中の自分が、ほんのわずかに遅れて目を細めるのが分かった。

もう実家には行けない。

鏡が、私を追いかけてきたような気がするから。