実録: 実家の納戸の鏡に、もう一人の自分が映る
2026年08月31日
東京で一人暮らしを始めて三年目になる。
実家は静岡県の田舎で、二階建ての戸建て。実父が三年前に他界し、実母が一人で住んでいる。毎月一回、実母に料理の持ち寄りに行くのが私の日課だった。
その日、いつものように実家を訪れたのは夕方のことだった。実母は買い物に出かけていて、私は一人で台所で調理を始めた。
「そうだ、物置から昔の写真出そう」
物置は家の裏手にある小さな部屋で、父の形見や古い家具が置いてある。普段は滅多に入らない。
物置のドアを開けると、薄暗い中に埃の匂いが立ち込めていた。懐中電灯で照らしながら、隅っこの棚から写真立てを探している時、ふと目に入った。
納戸の奥の壁に、縦長の鏡が立て掛けてあったのだ。
父が生前よく使っていた鏡だと記憶している。フレームは黒檀調で、表面に幾分カビのような斑点が浮かんでいる。
鏡の前で立ち止まった。
映る自分の顔。疲れた目元、少し伸びた髪、シャツの襟が少し曲がっている。
……あれ?
私はうなずいた。鏡の中の私もうなずいた。
でも、タイミングが少し違う。
私がうなずき終わった後、鏡の中の自分が、ほんのわずかに首を傾げたのだ。
「……っ」
背筋が凍った。深呼吸して鏡を見直すと、いつもの自分の顔が映っている。ただの疲れかもしれない。そう自分に言い聞かせた。
写真立てを抱えて物置を後にした。
翌日、また物置に入った。写真を探しに来たのではなく、ただ気になるからだった。
鏡の前で立ち止まる。
自分の顔が映る。
そしてまた、私が目を細めるより先に、鏡の中の自分が目を細めた。
今回ははっきりと分かった。鏡の中の自分は、私より0.5秒ほど遅れて動いている。
「誰かいる……?」
声が震えていた。物置の奥から、かすかに呼吸する音が返ってきた。
私の呼吸のリズムと、完全に同期していない。
私はその場から逃げ出した。物置のドアを閉め、鍵をかけた。
その夜、実母に電話した。
「お母さん、物置の鏡、どこにある?」
「えっ?あの黒い鏡?ずっと物置の奥に置いてあるわよ。どうしたの?」
「何も……」
電話を切って、自分の部屋で座り込んだ。
次の日、実家を出る時、ふと物置のドアを見た。
鍵はかかっていた。
でも、ドアの隙間から、かすかに鏡の表面が光っていた。
中を覗き込むことはできなかった。
それ以来、実家には一年以上行ってない。
でも先週、実母から電話があった。
「物置の鏡、割れちゃったのよ。昨夜、突然パキッって音がして」
「大丈夫だったの?」
「ええ、大丈夫だったわ。でも不思議なのが、鏡は割れてたのに、中身はそのまま映ってたのよ。壁に私の顔が、鏡なしで」
電話の向こうで、実母は笑っていた。
私は電話を切り、自分の部屋の鏡を見た。
映っているのは、私だった。
でも、目を細めると、鏡の中の自分が、ほんのわずかに遅れて目を細めるのが分かった。
もう実家には行けない。
鏡が、私を追いかけてきたような気がするから。