去年の夏、祖母の通夜を終えた後、祖母の実家に数日滞在させてもらった。

祖母が亡くなるまで、私は年に数回しか訪ねたことがなかった。場所は山奥の小さな集落で、最寄りの駅からも徒歩四十分以上。道中は暗く、手机の電灯がないと先が見えないほどだった。

祖母の実家は古く、裏手に露天風呂がある共同浴場が一つあった。祖母の話では、子供の頃は村人が毎日集まる場所だったらしいが、高齢化で十年前に閉まったそうだ。

私はその夜、長旅の疲れもあって、ふと「銭湯でも入ろうかな」と思った。昼間ならまだ見えるが、夜は怖い。でも、祖母の思い出の場所だから、一度くらい入ってもいいだろうと思った。

浴場に着くと、扉は開いていた。鍵は掛かっていなかった。

中に入ると、湯気の匂いがした。湯船は満水で、水面は鏡のように静かだった。灯りは付いていないが、月明かりが窓から差し込み、湯船の縁が白く浮かび上がっていた。

「あー、気持ち……」

そう言って湯船に足を踏み入れようとした瞬間、水面が揺れた。

私は足を止めた。

風もない。誰も入っていない。窓も扉も開いているが、外からの風ではここまで湯面が揺れるはずがない。

でも、水面は波立っていた。まるで誰かが湯船の底から押しているように。

背筋が凍った。私はその場から逃げ出した。

次の日、村の老人に銭湯の話をしたら、顔色を変えた。

「あの浴場、去年まで使ってたんだよ。おじいちゃんが亡くなってから閉めた——いや、待てよ。おじいちゃんじゃなくて、おばあちゃんが亡くなって閉めたんだっけ」

私は背筋が凍った。

祖母の通夜は、昨日だった。

「おばあちゃんは、毎日一人で入ってたんだよ。夜中、一人で。私たちは朝しか使わなかったから、夜中に誰がいるか知らなかった」

「でも、去年の冬、おばあちゃんが亡くなったその夜、近所の人たちが浴場を通ったら、中から湯気が上がっているのが見えたそうです」

「夜中に、一人で入るなんて……」

私はその夜、祖母の実家を飛び出した。

今でも思い出すと、背筋が凍る。

湯船の水面が、静かに揺れていたこと。

誰もいないのに。