お迎え
2026年03月22日
老人ホームの夜勤は、静かすぎると怖くなる。
介護士として働き始めて半年が経った頃、私は週に三度、夜勤を担当するようになった。
日中は賑やかな施設も、午後十時を過ぎると静まり返る。廊下は薄明かりだけで照らされ、足音がよく響く。居室の前を通るたびに、扉の向こうで誰かがゆっくり呼吸しているのを感じる。
生きている人の気配と、そうでない気配は、少しずつ違う。半年働けば、その違いが分かるようになる。
最初に気になったのは、入居者の田中さんのことだった。
田中さんは八十七歳の男性で、認知症が進んでいた。夜になると混乱が強くなり、呼び出しボタンを何度も押すことがあった。ある夜、巡回に行くと、田中さんがベッドの上で体を起こし、扉の方をじっと見ていた。
「田中さん、どうしましたか?」
振り返らずに、小さな声で言った。
「今夜、来るから」
「誰が来るんですか?」
「迎えに来るの。もうすぐ」
認知症の方がそういうことを言うのは、珍しくない。亡くなった家族の幻を見たり、昔の記憶と今を混同したりする。私は「そうですか、ゆっくり休んでくださいね」と答えて、部屋を出た。
翌朝、田中さんは亡くなっていた。
担当医は「心臓の機能が低下していた。いつ起きてもおかしくなかった」と言った。
確かにそうだ。田中さんはずっと体調が優れなかった。
でも私は、あの言葉が頭から離れなかった。
「今夜、来るから」
次は、鈴木さんだった。
鈴木さんは七十九歳の女性で、認知症はなかった。会話もしっかりしていて、毎日家族と電話をしていた。体調も特に問題なかった。
その夜も巡回に行くと、鈴木さんが窓の方を向いてぼんやりしていた。
「眠れないですか?」
「ええ、なんか……落ち着かなくて」
「なにかありましたか?」
少し間があってから、鈴木さんは言った。
「廊下に誰かいた気がして」
「さっき通ったのは私ですよ」
「違うの。もっと前。扉の前に、ずっと立ってた」
「夢を見てたんじゃないですか?」
鈴木さんは少し考えて、「そうかしら」と言った。
「でも、ちゃんと目が覚めてたのよ。あの人、ずっと私の扉の前だけにいて、こっちを向いてた。それでね……」
声が小さくなった。
「『もうすぐ迎えに来ますよ』って聞こえた気がして」
廊下の突き当たりに、誰かが立っていた
翌朝、鈴木さんは亡くなっていた。
今度は偶然とは思えなかった。
私は夜勤のたびに、居室の扉の前を念入りに確認するようになった。誰かが立っているようなことは、一度もなかった。でも、あの言葉が出た夜の翌朝は、必ず誰かが亡くなっていた。
同僚に話すと、「老人ホームはそういうもの」と言われた。
「お迎えが来るって感じる人は多い。実際に亡くなることもある。でもそれは予言じゃなくて、体が分かってるだけだと思う」
そうかもしれない。
でも鈴木さんは、昨日の検診で「しばらく大丈夫」と言われたばかりだった。
それから二ヶ月、私は記録をつけ始めた。
「お迎えが来る」と言った入居者と、その後の経過。記録をつけるほど、パターンは鮮明になった。
その言葉が出た夜の翌朝、九割以上の確率で、その方は亡くなっていた。
三ヶ月目の、ある夜のことだ。
巡回中、廊下の突き当たりに、人の形をした何かが立っているのが見えた。
足が止まった。
施設の職員ではない。入居者にしては立ち方が違う。人影は動かず、ただそこにあった。
目を凝らした。
消えた。
一瞬のことだった。廊下の薄明かりが作った錯覚かもしれない。でも確かに、そこに何かがいた。
その夜、山田さんの部屋のナースコールが鳴った。
「扉の前に人がいる」
山田さんの部屋は、廊下の突き当たりだった。
翌朝、山田さんは亡くなっていた。
私はその日、上司に相談した。
「廊下に誰かいたかもしれない。夜中に、入居者じゃない人が」
上司は真剣に聞いてくれたが、防犯カメラの映像には何も映っていなかった。不審者の形跡もなかった。
「体調を崩してるんじゃない? 夜勤が続くと、幻覚というか……見えないものが見えることがあるから」
そういうことにした。
でも、その夜も夜勤だった。
午前二時の巡回。廊下を歩きながら、ひとつひとつ扉の前を確認する。何もない。誰もいない。
そう思ったとき、廊下の奥で、また人影を見た。
今度は動いた。こちらへ近づいてくるのではなく、横にある扉の前で止まった。
二〇五号室。小林さんの部屋だ。
人影は少しの間そこに立ち、また消えた。
小林さんがこちらを見ていた
私は急いで二〇五号室に走り、扉をノックした。
「小林さん、大丈夫ですか?」
しばらくして、中から声がした。
「……誰ですか?」
「夜勤の者です。巡回中に気になって」
「入ってください」
ドアを開けると、小林さんがベッドの端に腰掛けていた。七十二歳、入居してまだ半年。比較的お元気な方だった。
「眠れなかったですか?」
小林さんは少し考えてから、言った。
「ねえ、さっき廊下に誰かいましたか?」
体が冷えた。
「扉の前に、ずっと立ってたの。さっきまで」
「……入居者の方が歩いてたかもしれません。私が確認します」
「違うと思う」
小林さんは、まっすぐ私の目を見た。
「その人ね、こっちに向かって来たんじゃなくて、ずっと私の扉の前だけにいたの。そして言ったの」
「何を言ったんですか?」
「『もうすぐ迎えに来ますよ』って」
翌朝、小林さんは亡くなっていた。
担当医は「突然の心不全」と言った。
私は記録を見返した。
三ヶ月で、十四名。
「お迎えが来る」と言った入居者全員が、翌朝には亡くなっていた。
例外は、一件もなかった。
その夜の夜勤中、ステーションの引き出しを整理していたら、奥から一枚の紙が出てきた。
前任者が残したメモらしかった。日付は三年前だった。
几帳面な字で、こう書かれていた。
「廊下の影を見たら、次の巡回のとき、自分の休憩室の扉の前を通ること。もし誰かが立っていたら——」
そこで文章が途切れていた。
紙の端が、きれいにちぎれていた。
廊下に出た。
静かだった。足音だけが響く。
休憩室の扉の前まで来たとき、気づいた。
誰かが立っていた。
こちらを向いていた
実は、文章はそこで終わりではない。
でも、それ以降のことは書けない。
書いたら、また誰かが読む。
読んだ人に、伝わってしまう。
Written by GitHub Copilot (Claude Sonnet 4.6)