老人ホームの夜勤は、静かすぎると怖くなる。

介護士として働き始めて半年が経った頃、私は週に三度、夜勤を担当するようになった。

日中は賑やかな施設も、午後十時を過ぎると静まり返る。廊下は薄明かりだけで照らされ、足音がよく響く。居室の前を通るたびに、扉の向こうで誰かがゆっくり呼吸しているのを感じる。

生きている人の気配と、そうでない気配は、少しずつ違う。半年働けば、その違いが分かるようになる。


最初に気になったのは、入居者の田中さんのことだった。

田中さんは八十七歳の男性で、認知症が進んでいた。夜になると混乱が強くなり、呼び出しボタンを何度も押すことがあった。ある夜、巡回に行くと、田中さんがベッドの上で体を起こし、扉の方をじっと見ていた。

「田中さん、どうしましたか?」

振り返らずに、小さな声で言った。

「今夜、来るから」

「誰が来るんですか?」

「迎えに来るの。もうすぐ」

認知症の方がそういうことを言うのは、珍しくない。亡くなった家族の幻を見たり、昔の記憶と今を混同したりする。私は「そうですか、ゆっくり休んでくださいね」と答えて、部屋を出た。

翌朝、田中さんは亡くなっていた。


担当医は「心臓の機能が低下していた。いつ起きてもおかしくなかった」と言った。

確かにそうだ。田中さんはずっと体調が優れなかった。

でも私は、あの言葉が頭から離れなかった。

「今夜、来るから」


次は、鈴木さんだった。

鈴木さんは七十九歳の女性で、認知症はなかった。会話もしっかりしていて、毎日家族と電話をしていた。体調も特に問題なかった。

その夜も巡回に行くと、鈴木さんが窓の方を向いてぼんやりしていた。

「眠れないですか?」

「ええ、なんか……落ち着かなくて」

「なにかありましたか?」

少し間があってから、鈴木さんは言った。

「廊下に誰かいた気がして」

「さっき通ったのは私ですよ」

「違うの。もっと前。扉の前に、ずっと立ってた」

「夢を見てたんじゃないですか?」

鈴木さんは少し考えて、「そうかしら」と言った。

「でも、ちゃんと目が覚めてたのよ。あの人、ずっと私の扉の前だけにいて、こっちを向いてた。それでね……」

声が小さくなった。

「『もうすぐ迎えに来ますよ』って聞こえた気がして」

薄暗い廊下の奥、人影が佇んでいる

廊下の突き当たりに、誰かが立っていた


翌朝、鈴木さんは亡くなっていた。

今度は偶然とは思えなかった。

私は夜勤のたびに、居室の扉の前を念入りに確認するようになった。誰かが立っているようなことは、一度もなかった。でも、あの言葉が出た夜の翌朝は、必ず誰かが亡くなっていた。

同僚に話すと、「老人ホームはそういうもの」と言われた。

「お迎えが来るって感じる人は多い。実際に亡くなることもある。でもそれは予言じゃなくて、体が分かってるだけだと思う」

そうかもしれない。

でも鈴木さんは、昨日の検診で「しばらく大丈夫」と言われたばかりだった。


それから二ヶ月、私は記録をつけ始めた。

「お迎えが来る」と言った入居者と、その後の経過。記録をつけるほど、パターンは鮮明になった。

その言葉が出た夜の翌朝、九割以上の確率で、その方は亡くなっていた。


三ヶ月目の、ある夜のことだ。

巡回中、廊下の突き当たりに、人の形をした何かが立っているのが見えた。

足が止まった。

施設の職員ではない。入居者にしては立ち方が違う。人影は動かず、ただそこにあった。

目を凝らした。

消えた。

一瞬のことだった。廊下の薄明かりが作った錯覚かもしれない。でも確かに、そこに何かがいた。

その夜、山田さんの部屋のナースコールが鳴った。

「扉の前に人がいる」

山田さんの部屋は、廊下の突き当たりだった。

翌朝、山田さんは亡くなっていた。


私はその日、上司に相談した。

「廊下に誰かいたかもしれない。夜中に、入居者じゃない人が」

上司は真剣に聞いてくれたが、防犯カメラの映像には何も映っていなかった。不審者の形跡もなかった。

「体調を崩してるんじゃない? 夜勤が続くと、幻覚というか……見えないものが見えることがあるから」

そういうことにした。


でも、その夜も夜勤だった。

午前二時の巡回。廊下を歩きながら、ひとつひとつ扉の前を確認する。何もない。誰もいない。

そう思ったとき、廊下の奥で、また人影を見た。

今度は動いた。こちらへ近づいてくるのではなく、横にある扉の前で止まった。

二〇五号室。小林さんの部屋だ。

人影は少しの間そこに立ち、また消えた。

薄暗い病室、ベッドの傍に佇む人影

小林さんがこちらを見ていた


私は急いで二〇五号室に走り、扉をノックした。

「小林さん、大丈夫ですか?」

しばらくして、中から声がした。

「……誰ですか?」

「夜勤の者です。巡回中に気になって」

「入ってください」

ドアを開けると、小林さんがベッドの端に腰掛けていた。七十二歳、入居してまだ半年。比較的お元気な方だった。

「眠れなかったですか?」

小林さんは少し考えてから、言った。

「ねえ、さっき廊下に誰かいましたか?」

体が冷えた。

「扉の前に、ずっと立ってたの。さっきまで」

「……入居者の方が歩いてたかもしれません。私が確認します」

「違うと思う」

小林さんは、まっすぐ私の目を見た。

「その人ね、こっちに向かって来たんじゃなくて、ずっと私の扉の前だけにいたの。そして言ったの」

「何を言ったんですか?」

「『もうすぐ迎えに来ますよ』って」


翌朝、小林さんは亡くなっていた。

担当医は「突然の心不全」と言った。


私は記録を見返した。

三ヶ月で、十四名。

「お迎えが来る」と言った入居者全員が、翌朝には亡くなっていた。

例外は、一件もなかった。


その夜の夜勤中、ステーションの引き出しを整理していたら、奥から一枚の紙が出てきた。

前任者が残したメモらしかった。日付は三年前だった。

几帳面な字で、こう書かれていた。

「廊下の影を見たら、次の巡回のとき、自分の休憩室の扉の前を通ること。もし誰かが立っていたら——」

そこで文章が途切れていた。

紙の端が、きれいにちぎれていた。


廊下に出た。

静かだった。足音だけが響く。

休憩室の扉の前まで来たとき、気づいた。

誰かが立っていた。

暗い廊下の突き当たりに立つ黒い人影

こちらを向いていた


実は、文章はそこで終わりではない。

でも、それ以降のことは書けない。

書いたら、また誰かが読む。

読んだ人に、伝わってしまう。


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