温泉旅館の貸切風呂で、湯船に誰かが座っている音がした
2026年08月28日
去年の秋、妻と二人で松本の山奥にある温泉旅館に泊まった。
インターネットで「秘湯・貸切風呂付き・絶景露天」で検索して見つけたところだ。写真では木々に囲まれた岩風呂が広場で、露天から見える紅葉が素晴らしい。予約も簡単だった。
「これだ!」
妻が喜びながら予約を完了させた。僕自身も、都心での喧騒から逃れて、静かな山の中で温泉に浸かりたいという欲求があった。
車で二時間ほど山を登り、ようやく旅館に到着した。建物は古いが清潔感があり、女将が温かく出迎えてくれた。
「お二人様のお部屋をご用意いたしました。露天風呂は貸し切りですので、思いっきりお楽しみください」
部屋は広々とした和室で、窓からは山々が広がっていた。夕飯は部屋での食事。地元の食材を使った料理はどれも美味しく、妻も大満足だった。
「もうお風呂に入っちゃおうか」
妻が率先して浴衣のまま露天風呂へ向かった。僕は先に食器を下げ、一時間ほど後にゆっくりと後を追うことにした。
露天風呂の場所を教えてもらった際、女将が一言付け加えていた。
「お風呂の湯船には、足元が滑りにくいよう石が敷いてあります。お気を付けください」
その時、僕は石が敷いてあること以外、特に気に留めなかった。
一時間後、僕は湯を沸かし直し、入浴した。露天風呂は木々に囲まれ、空には星が広がっていた。最高だった。
湯船に浸かりながら、妻を思い出す。彼女が先に湯船に入り、僕が来るのを待っていることだろう。
ふと、湯船の底で音がした。
ゴソッ、ゴソッ
誰かが湯船の底で動いている音だ。
「え?」
僕が声を上げると、音は止んだ。
「……妻か?」
しかし、妻は先に上がってきたはずだ。部屋に戻ったというLINEもなかった。
もう一度、湯船に浸かり直した。
ゴソッ、ゴソッ
また音がする。今度はより近く、湯船の端で、誰かが座っているような感触があった。
湯船の中には僕一人だ。
僕はそっと湯から上がり、露天風呂の縁に目をやった。
湯の蒸しだけが立ち込めていて、底はよく見えない。だが、湯の表面が微かに揺れている。誰かが座っていれば、当然の現象だ。
「妻?それとも、他の客か?」
声をかけた。
「すみません。湯船に誰かいますか?」
返事はない。
ただ、湯の表面が、ゆっくりと、しかし確かに揺れている。
僕は恐怖で動けなくなった。
その時、湯の向こうから、低い声が聞こえた。
「……お帰りなさい」
声は古びた女性の声だった。正確には「聞こえた」と言うより、骨を伝わってくる振動だった。
僕は逃げ出した。
部屋に戻り、鍵をかけた。妻に電話をかけたが、出ない。
「妻!妻!」
部屋中に電話をかけた。それでも出ない。
僕は必死に旅館のフロントに電話した。
「すみません、露天風呂に……誰かがいます!」
長い沈黙の後、女将の声が聞こえた。
「……お風呂はもう上がられましたか?」
「だって、湯船に誰かが座っている音がするんです!」
さらに長い沈黙。
「……わかりました。係が確認します」
五分後、係の男性が部屋に来た。
「お風呂は空いております。確認しました」
「でも、音が……」
男性は少し困ったような顔をした。
「この旅館、昔は墓地があった場所なんです。お墓を移したあと、温泉として開業しました。夜中に湯船で音がする……という話は、昔からよく聞きます」
僕は震えながら露天風呂へ向かった。
湯は静かだった。蒸しだけが立ち込めている。底には石が敷いてあり、誰かの形跡はなかった。
しかし、湯船の端、先程音がした場所の石が、他の石と明らかに違っていた。
新しい石だった。
湿っていて、湯に濡れたままの、小さな靴の跡が、石に残っていた。
僕はその夜、旅館を辞めることにした。
妻は結局、部屋にいた。僕が露天風呂に入っている間、妻は部屋でスマホを見ていたという。
「あなた、もう上がったの? 私はずっとここにいたよ」
翌日、チェックアウトの際、女将に尋ねた。
「昨夜の露天風呂の件ですが……」
女将は、まるで何もなかったかのように微笑んだ。
「この旅館、貸切風呂なんです。だから、湯船に誰かがいる的时候、それは……お客様ご自身かもしれませんね」
僕は振り返った。
湯船の底に、石が一枚、だけ置かれていた。
新しい石だった。
湿っていて、小さな靴の跡が、残っていた。
この話、僕の実話です。
妻も「スマホを見ていた」と言っていた。でも、あの音は確かにした。
今でも、温泉旅館の貸切風呂に入ると、湯船の底で音がする気がしてならない。