旅館の廊下

知人の話だ。彼の名前は伏せる。

彼は去年の秋、友人二人と温泉旅行に行った。目的地は山間にあった小さな旅館。地図で見て「あ、そこあったね」くらいの距離感。車で行くと高速を下りてから一般道を四十分行かったところ。周囲は山で、夕方にはすっかり暗くなる。

到着したのは午後五時頃。チェックインの時点で既に外は薄暗い。旅館の看板は木製で、風で少し傾いていた。入口には「湯治」と書かれた暖簾が下がっている。

「昔ながらの旅館だね」

友人がそう言った。その言葉が後から考えると、何かの予兆だったのかもしれない。

玄関を靴のまま脱ぎ、土足置き場の段差を上がると、広い土間が広がっていた。床はコンクリートで、所々水たまりができている。天井は高く、梁がむき出しになっている。どこか廃墟に近い雰囲気で、友人が「ちょっと怖いね」と小声で言った。

「大丈夫だよ、温泉旅館だし」

彼はそう言って、フロントに向かった。フロントはカウンター一つで、背後には棚が並び、そこには古い書類や封筒が山積みになっている。フロントの女性は五十代くらいで、名前札には「おとわ」と書かれていた。

「ようこそ。お部屋をご用意しています」

おとわさんはそれ以上に何も聞かなかった。住所も氏名も聞かれない。鍵を三つ、木製の鍵束にまとめて渡された。

「それぞれの部屋に置いてあります。お部屋の番号は、鍵に書いてあります」

彼は特に疑問に思わなかった。昔ながらの旅館だから、チェックインの手続きが少ないのは当然だと思った。

部屋は三階にあった。階段は木製で、踏み込むと「キィ――」という音が長く響く。廊下は薄暗く、壁には行灯が並んでいる。しかしその光は弱く、床に落ちる影は長く、どこか歪んでいる。

彼の部屋は「7」号室だった。鍵の札に「七」と墨で書かれている。筆跡が力強く、少し揺れている。

部屋を開けると、予想通り小さな和室だった。布団が二枚、座卓、そして窓からは山が見える。しかし窓ガラスが一つ割れていて、そこから風が吹き込んでいる。

「おとわさん! 窓が割れてますよ!」

階下へ声をかけたが、返事はない。廊下の行灯が、かすかに揺れている。

布団を敷き、夕食を待った。夕食は七時頃だったか。食堂は二階にある。階段を下りると、すでに他の客が数名、食事をしていた。しかし彼らは誰も話さない。黙々と食べ、黙々と箸を置き、黙々と席を立つ。

食事中、彼はふと邻の席の客の手に目が行った。その客の右手には、木製の鍵束がかかっていた。

「あれ?」

彼の持っている鍵束と全く同じデザインだ。しかし、札に書かれた文字は「七」ではなかった。別の数字が書かれていた。

「あの、この鍵束ってどこで ――」

彼が言葉をかけた瞬間、邻の客が振り返った。その表情は、まるで「何の話ですか」というもので、何も聞いていないという風だった。

食事が終わり、部屋に戻ると、ベッドの端に、もう一つの鍵束が置いてあった。

彼の持っていない鍵束だ。

彼が凍りついた。部屋に入るとき、廊下にも部屋の中にも、誰も見ていない。しかし、ベッドの端に、木製の鍵束が、静かに置かれていた。

近づいて見た。札に書かれた文字は、彼の部屋番号と同じ「七」だった。

そして、その札の裏に、小さな文字で何か書かれていた。

「お帰りなさい」

彼は鍵束を床に投げ捨て、廊下へ走った。フロントへ行くと、おとわさんはそこにいた。

「あの、部屋に、鍵が――」

おとわさんはゆっくりと彼を見た。

「あら、お戻りですか。お夕食はお召し上がりになりましたか」

「だって、私の部屋に、私の名前が――」

おとわさんは、まるで彼が何かおかしなことを言ったという表情で、小さく笑った。

「お部屋の鍵ですもの。当たり前じゃないですか」

彼は部屋に戻った。鍵束は消えていた。ベッドの上も床も、何もない。しかし、窓の割れたガラスから、風が強く吹き込んでいる。

それ以来、彼は二度とあの旅館に行っていない。

友人たちは「そんなことあるわけないでしょ」と笑う。しかし、彼が写真に残していた廊下の写真には、行灯の光の中で、廊下の奥に、誰かの影が写っていた。

三人で写っているはずの写真に、四人目の影が。