深夜の改札で、ICカードが読み取れない
2026年09月12日
去年の秋のことだ。俺は埼玉・所沢の自宅から東京・西新宿まで通勤していた。終電を逃した夜、改札を通ろうとしたら、奇妙なことが起きた。
時刻は夜中の一時半すぎ。駅はガラガラで、改札口には俺一人しかいなかった。ホームには先ほど乗った私鉄の列車が、もう走ってしまっている。次の列車は三十分後だ。
Suicaを改札機にかざした。
「ピッ」
通常通り、緑のランプが点灯し、扉が開くはずだった。しかし、扉は開かない。代わりに、音声ガイドが鳴った。
「ICカードが読み取れません。お戻しください。」
「はあ?」
俺はもう一度、かざした。
「ICカードが読み取れません。お戻しください。」
同じ音声。同じテンポ。何度かざしても、同じ結果だった。改札機の画面には「エラー」と表示されている。
おかしい。朝のラッシュ時にも使えたカードだ。バッテリー切れでもない。Suicaはタッチレスで、充電の概念がない。
俺はイライラしながら、もう一度かざした。そのとき、改札機のスピーカーから、普段とは違う音が流れた。
「お戻しください。お戻しください。お戻しください。」
速い。早すぎる。通常なら一秒ほどの間隔を置いて音声が出るはずなのに、間隔が詰まっている。まるで、誰かが早送りしているようだ。
「っせ、せーの」
俺はカードを戻し、もう一度かざそうとした。その瞬間、改札機の向こう側で、何かが動くのを見た。
改札の向こうには、ホームへの階段がある。その階段の途中に、人影が立っていた。
暗くてよくわからない。ただ、上半身が妙に前傾していて、首がいつもより長く曲がっているように見えた。
その人影も、改札機を見ている。俺の方を。
「……誰?」
俺が声をかけると、人影はゆっくりと首を傾げた。首が、九十度、さらに九十度と曲がる。人間の首がそんな角度まで曲がるはずがない。
「お戻しください。お戻しください。お戻しください。お戻しください。」
改札機の音声も、さらに速くなっていた。まるで機械が焦っているようだ。
俺は背筋が凍るのを感じた。振り返りたくないのに、後ろから冷たい息がする。改札の向こうの人影が、階段を降りてきている。足音が聞こえる。
コン、コン、コン。
音の間隔が、改札機の音声と同期している。
「お戻し」→ コン
「ください」→ コン
「お戻し」→ コン
「ください」→ コン
同じリズム。二つの音が、完全に同期している。
俺は反射的に改札の外に飛び出した。改札機を乗り越え、床に膝をついた。振り返ると、改札の向こうには誰もいなかった。階段も、ホームも、真っ暗だ。
改札機の画面には、今も「エラー」と表示されている。音声は出ない。
その夜、俺は駅員を呼んで、改札を通った。駅員は「機械の不調かもしれませんね」と言った。
しかし、俺は知ってる。機械がそんな音を出すわけがないって。
「お戻しください」の音声は、人間の呼吸のリズムで鳴っていた。
そして、駅を後にする時、俺はふと振り返った。改札機の画面に、一瞬だけ、俺の顔が映っているのが見えた。
映っているはずのない改札の向こう側で、俺の顔が、ゆっくりと微笑んでいた。
それ以来、俺はその駅には行ってない。
通勤経路を変えて、三十年になる。