知人が実際に体験した話です。

都内某所のマンションの三階に一人暮らしをしていた20代の男性。会社員で、残業がちな生活を送っていました。

ある夜、深夜2時過ぎに仕事から帰ってくると、ふと耳にしたのです。

ピアノの音。

クラシック曲の、どこか懐かしさを感じさせるメロディ。まるで古い映画のサウンドトラックのような、温かみのある音色。

「え?」

彼はその場で立ち止まりました。階下には、空室の部屋があるからです。前の入居者が去ってから半年以上、その部屋には誰か住んでいません。不動産屋にも確認済みでした。

「たまたまだろ。何かの音が誤魔化してるだけ」

そう自分に言い聞かせて、彼は自分の部屋に入りました。

でも、そのピアノの音は止まない。

むしろ、彼が自分の部屋に入ってからも、壁を伝わってくるように、はっきりと聞こえてくるのです。

ピアノの音色は、だんだん変わっていきました。

最初は懐かしいメロディだったのに、いつの間にか、不協和音に変わっていく。右手と左手が、まるで違うリズムで動いている。まるで、二人の人間が一つのピアノを弾いているような。

彼は寝転がり、イヤホンをつけて音楽を聴こうとしました。

でも、イヤホンから聞こえる音楽よりも、階下から響くピアノの音の方が、なぜか鮮明に聞こえるのです。

「おかしいな……」

彼はベッドから起き上がり、壁に耳を近づけました。

すると、ピアノの音が、はっきりと「ここから来ている」とわかる距離まで近づいていることに気づいたのです。

階下――ではなく、もっと近い。

彼の部屋の真下から、ピアノの音が聞こえている。

でも彼の部屋にはピアノなんてありません。

彼は慌てて階下を見に行こうとしました。でも階段を下りようとした瞬間、ピアノの音がピタリと止んだのです。

完全な沈黙。

それ以来、彼はそのピアノの音を二度と聴いたことはありません。

でも、知人は今でもこう言います。

「あの時、階段を下りなかったのは、運が良かったのか……それとも、私が階段を下りたら、ピアノの音が『私の部屋から』聞こえ始めていたからなのか」

「わからないんですよ。でも、ピアノの音が止まった瞬間、彼氏の部屋のドアから、かすかにピアノの音が漏れ出していたような……そんな気もするんです」

知人はその後、そのマンションから引っ越しました。

新しい部屋は、階下に誰も住んでいないことを、自分で確認してから決めたそうです。

でも、引っ越して一週間目。

夜中、ふと耳にしたのです。

ピアノの音。

今度は、自分の部屋の中から。


ピアノのシルエット