商店街の端に、百年続く漬物屋がある。

春先だけ、仕込みの手伝いを短期で募集する。

大学の帰りに寄れる距離だったから、私は軽い気持ちで応募した。

店の奥には、大きな木桶が並んでいた。

古いぬか床の匂いは、酸っぱさより先に、鉄みたいな冷たい香りがした。

店主の佐伯さんは、最初にひとつだけ注意した。

「閉店後、桶に名前を呼ばれても返事しないで」

冗談にしては言い方が真顔すぎて、私は笑えなかった。

深夜の漬物蔵

蓋の隙間から、誰かの呼吸だけが上がってくる。

作業は単純だった。

野菜を塩で下処理して、重石をずらし、温度と湿度を記録する。

ただ、夜の見回りだけが妙だった。

閉店後の店内は静かなのに、桶の並ぶ蔵だけ、遠くで会話しているみたいな音がする。

聞き取れない囁きが、木の内側を這っていた。

三日目の夜、私は確かに聞いた。

「……ゆうた」

私の名前だった。

声は女の人に近いのに、語尾だけ、湿った布を絞るみたいに歪んでいた。

反射で返事しそうになって、慌てて口を押さえた。

その瞬間、蔵の温度計が一度だけ大きく跳ねた。

翌朝、佐伯さんに話すと、彼は帳場の引き出しから古いノートを出した。

仕込みの日付と、働いた人の名前が並んでいる。

ところどころ、赤鉛筆で二重線が引かれていた。

「返事をした人ですか」と聞くと、佐伯さんは首を縦に振らなかった。

代わりに、ノートの最後のページを見せた。

そこにはこう書いてあった。

『返事をしなくても、三度呼ばれたら、向こうが覚える』

その夜、閉店直前に常連のおばあさんが小さな袋を買っていった。

中身は、看板商品の古漬けだった。

会計のとき、おばあさんが私を見て言った。

「あなた、もう床に名前つけられた顔してるね」

意味が分からないまま、笑ってやり過ごした。

四日目。

五日目。

蔵の音は、毎晩少しずつはっきりしていった。

そして六日目、ついに三度目に呼ばれた。

「ゆうた」

「ゆうた」

「ゆうた」

返事はしなかった。

なのに、木桶の蓋が、内側から小さく三回、叩かれた。

木桶の蓋

叩く間隔が、私の心拍と同じ速さになっていく。

翌朝から、味が分からなくなった。

塩も、酢も、唐辛子も、全部ぬるい水みたいだった。

家で食べるご飯まで、土の匂いしかしない。

一週間後、佐伯さんが私に試食を渡した。

店の一番古い床で漬けた胡瓜だった。

噛んだ瞬間、舌の裏で、はっきり言葉がした。

「ここにいる」

それは私の声だった。

喉の奥が冷えて、吐き出そうとした。

でも、歯が離れなかった。

口の中の胡瓜は、いつの間にか細い指みたいな形になっていて、内側から私の歯列をなぞっていた。

その日で私は辞めた。

連絡先も変えた。

けれど夜になると、台所の流しから、同じ呼び声が上がる。

返事をしないまま蛇口を閉めても、水滴が三回、鳴る。

とん。

とん。

とん。

今朝、冷蔵庫の奥から、覚えのない袋が出てきた。

店のロゴ入りで、日付は今日。

ラベルには商品名の代わりに、私のフルネームが印字されていた。


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