大家さんが貸してくれた部屋に、前の入居者の痕跡が残っていた話
2026年08月18日
大家さんが「そのまま使ってください」と言った部屋
去年の秋、東京・世田谷の古いアパートに一人暮らしを始めた。
大家さんは七十代くらいの女性で、物件管理は息子さんに任せていて自分は郊外の宅で暮らしているらしい。引越しの当日、「前の入居者は引っ越しが忙しくて、片付けが追いつかなかったみたい。そのまま使ってくれて大丈夫だよ」と言われて、特に気にせず入居した。
部屋は八帖のワンルーム。キッチンとバス・トイレは別。廊下を挟んで向かいにゴミ置き場がある、昭和の匂いがする物件だった。
押入れから発見された「日記」
引っ越し二日目、押入れの奥から何か見つかった。
ダンボールの箱で、中には和紙の表紙を手製本したノートが三冊入っていた。表紙には「記録」と墨で書かれている。前の入居者の持ち物だろうと、そのまま机の引き出しにしまった。
一週間後、深夜の二時ごろだった。
私は水道の蛇口がヒタヒタと鳴っているのに気づいて、キッチンに出かけた。止めるために回そうとしたとき、ふと机の引き出しがわずかに開いているのに気づいた。
開けていた覚えはない。
引き出しの奥に、先ほどのノートが一冊、勝手に開いた状態で入っていた。
「明日も来る」
ページをめくってみると、そのノートの内容は奇妙だった。
10月12日 — 雨。夜中に声がした。冷蔵庫の扉が開いている。中身は全部腐っていた。 10月15日 — また来た。押入れの隙間から息苦しい。 10月20日 — 今夜も来る。もう逃げられない。 10月25日 — 明日も来る。
日付は十月で、全て同じ月の出来事のように書かれている。最後の「明日も来る」の行の次に、別の文字が追記されていた。
新しい人が来た。でももう遅い。
その文字は、先ほどの筆記具とは違うものだった。もっと新しいインクで、慌てて書いたように滲んでいた。
冷蔵庫の中の腐ったもの
私はその夜、冷蔵庫の中身を全部捨てた。
野菜も肉もすべて、腐りかけていた。賞味期限は二週間先だったのに。
次の日、大家さんに電話で「前の入居者のノートが見つかった」と伝えた。すると、大家さんはしばらく沈黙して、小声で言った。
「あの人は……突然いなくなりました。大家の私が確認に行ったとき、部屋には食べ物が全部腐っていて、ノートだけが机の上に置いてあったんです。警察を呼んだら、入居者登録自体がなかった」
「つまり、あの部屋に実際に住んでいた人なんて、最初からいなかったんです」
今夜も
その日以来、冷蔵庫の蛇口はヒタヒタと鳴り続けている。
止める方法を何度か試したが、毎回元の状態に戻る。
そして昨夜、机の引き出しを見ると、ノートがまた開いていた。新しいページが一枚追加されていて、そこには今朝の私の名前が書かれていた。
明日も来る。
この話は知人の体験談を元にしています。大家さんと物件の名前は伏せてあります。