花咲荘五〇七号室
2026年03月24日
【編集者注】以下の文書は、2023年3月に廃業した「花咲荘ケアホーム」(所在地:非公開)の建物解体作業中に発見されたものです。施設長室の書棚から、ビニール袋に封入された状態で見つかりました。施設の廃業理由は公式には「経営難」とされていますが、廃業前後に複数の職員が退職しており、その理由は公表されていません。文中の固有名詞は一部仮名処理をしています。
職員日誌(抜粋)
2022年9月14日 記録者:介護士 森田
田島さん(82歳、男性)が夜間に複数回ナースステーションを訪れ、「五〇七号室に行きたい」と訴えた。
当施設の部屋番号は五〇五号室まで。五〇七号室は存在しない。
認知症に伴う混乱として対応し、居室に誘導した。
2022年9月17日 記録者:介護士 森田
田島さん、今夜もナースステーションへ。「五〇七号室に荷物を忘れてきた」と言う。
「どんな荷物ですか」と尋ねると、「写真アルバムです。妻との写真が入っている」と答えた。
田島さんの奥様は三年前に他界されている。
その後居室に戻っていただいたが、二時間後、再び廊下に出ていた。
2022年9月21日 記録者:副施設長 中村
田島さんの「五〇七号室」への言及が続いている。森田から引き継ぎで報告を受け、認知症の進行として記録する方針で合意。ただし、田島さんの描写が気になった。
「五〇七号室は、五〇五号室のもう少し奥にある」
「廊下が少し暗くなっているところを右に曲がる」
「扉が少し低い。頭をかがめないといけない」
記憶の混乱にしては、描写が細かすぎる。
【編集者注】五〇五号室の先の廊下について、複数の職員の証言を収集した。「廊下は突き当たりで終わっている」「コンクリートの壁がある」という証言が多数だった一方、一部の職員は「壁の前に、なんとなく空気が違う場所がある気がした」と語った。
2022年10月3日 記録者:介護士 木下
田島さんのほか、別の入居者・吉村さん(77歳、女性)が、「あの部屋には入れてもらえないの?」と職員に質問した。
「どの部屋ですか」
「五〇五より奥の、小さい部屋。前にここに来たとき、扉を見た気がするんだけど」
吉村さんは入所して一年にならない。「前にここに来た」という記憶が何を指すのか不明。
担当医師に報告し、観察を継続する。
2022年10月9日 記録者:施設長 橋本
田島さんと吉村さんに加え、今日は長谷川さん(79歳、男性)も「あの部屋」に言及した。
「むかし、そこに荷物を置いておいたんだが」
長谷川さんは認知症の診断がない。記憶は比較的明瞭だ。
「五〇七号室のことですか」
「番号は知らない。でも確かにあった。鍵のかかった小さな部屋が」
施設の古い図面を確認することにした。
五〇五号室の先——図面には、何もないことになっていた
2022年10月14日 記録者:施設長 橋本
管理会社から、当建物の建設当時の図面(1978年作成)を取り寄せた。
現在の図面では、五号棟の廊下は五〇五号室で終わっている。
だが、1978年の図面には、五〇五号室の先にもう少し廊下が延び、小さな部屋が描かれていた。
部屋番号:507。
用途:「倉庫(施錠)」
その部屋がいつ、なぜ封鎖されたのか、記録に残っていない。
管理会社の担当者は「改修工事のときに壁を作ったのだろう」と言った。それ以上の詳細は「古すぎて分からない」とのことだった。
2022年10月19日 記録者:施設長 橋本
1987年の改修工事記録を見つけた。工事内容の一覧に、「五号棟廊下一部閉鎖(コンクリート打設)」とあった。
理由の記載はない。
施工業者は現在も存在しているが、担当者は退職しており、当時の詳細を知る人間はいないという。
田島さんが最初にこの施設を訪れたのは、1983年だと本人から聞いていた。転居のためにいったん離れ、再入所したのが三年前だという。
1983年——五〇七号室はまだ存在していた年だ。
【編集者注】以下の記録は、2022年10月22日未明のものである。
2022年10月22日 午前2時17分 ナースステーション記録
巡回中の森田が、田島さんの居室が空室であることを確認。廊下を確認。田島さんの姿なし。
非常階段、食堂、浴室を確認。姿なし。
五号棟廊下の突き当たりを確認。
【以下、森田の手書き追記】
突き当たりに田島さんが立っていた。壁に向かって、両手で何かを触っていた。
「田島さん」
田島さんは振り返った。表情がなかった。目が——開いているのか、閉じているのか、分からなかった。
「戻りましょう」
声をかけると、田島さんはゆっくり頷いて、こちらに歩いてきた。居室に戻り、ベッドに横になった。そのまま朝まで眠られた。
翌朝、「昨夜のことは覚えていますか」と聞いた。
「何かあったかね」と田島さんは言った。「夢を見たかもしれない。若い頃の夢だ。まだ写真がいっぱいあった頃の」
壁の向こうに、何があるのか
2022年11月7日 記録者:施設長 橋本
五〇五号室の先の壁を、業者に調査してもらった。
レーダー探査の結果、壁の向こうに空間があることが確認された。
広さはおよそ四畳半。天井高は現在の廊下より若干低い。
空間の内部に、「有機物と思われる反応」が一点あった。
詳しい内容については、業者から報告書が届き次第、続きを記録する。
【編集者注】施設長橋本氏の日誌はここで途切れている。業者の報告書は、発見された書類の中に含まれていなかった。
施設長橋本氏は2022年11月末に「一身上の都合」として退職している。退職後の所在は確認できていない。
当施設は2023年3月に正式に廃業し、建物の解体が決定した。
解体作業の初日、作業員が五号棟廊下の突き当たりの壁を取り壊した。壁の向こうには、確かに小部屋があった。
部屋の内部は空だった。
ただし一点、「扉の内側に、爪で引っかいたような痕がたくさんあった」との報告があった。
壁が閉じられた1987年以降、誰もその部屋に入れないはずだった。
それにもかかわらず、扉の内側に、新しい爪跡があった。
扉の内側に、爪痕があった
田島さんは現在も別の施設で生活されていると聞いた。元気にされているそうだ。
「五〇七号室」について、その後言及されたという記録は残っていない。
ただし担当職員の話では、田島さんは今でも、夜になると廊下に出ることがあるという。
廊下の突き当たりまで歩いて、しばらく壁を見てから、自分で戻ってくる。
何を見ているのか、誰にも分からない。
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