温泉旅館の縁側で、庭が見えなくなった話
2026年09月03日
去年の冬、私は長野県の温泉旅館で季節アルバイトをしていた。
旅館は山奥にあり、周囲には人家がほとんどない。本館は木造二階建てで、一階にロビーと食堂、二階に客室が並んでいる。私が担当していたのは二階の三つの客室の掃除と、夜間のフロント当番だった。
客は夕方から入ってきて、夜九時頃には全員が各自の部屋に引きこもる。フロントは無人になる。夜中の温泉もあって、たまに深夜に湯船から上がる客もいるが、基本的には旅館全体が静まり返る。
ある日のこと。深夜二時頃、フロントで雑務をしていたら、ふと気づいた。
縁側から、庭が全く見えないのだ。
普段は縁側に出ると、砂利の庭と、その向こうに松の木が一本、さらにその奥に暗い山が見えている。夜でも街灯と旅館の明かりで、庭の全体像は見える。
それが、今見えない。
縁側に出てみると、障子を開けたその先が、真っ白な霧に埋もれていた。凍えるような冷気が縁側まで届く。霧は縁側のすぐ外、十センチのところから始まっているように見えた。
「おかしいな…」
部屋に戻ってフロントの電話に出ようとしたら、電話が鳴っていた。
「もしもし」
向こうには、何も聞こえない。ノイズだけ。
「もし、もしー」
その時、ノイズの中から、かすかに声が聞こえた。
「…縁側、出ないで」
声をかけたのは私だった。
電話を置くと、また庭が見えなくなったことに気づいた。今度は障子の隙間からも、外が全く見えない。白い霧が、まるで障子に張り付いているように見える。
その時、縁側の外で、何かが動く音がした。
砂利を踏む音。一歩、また一歩。近づいてくる。
縁側の先に、人が立っている。
白い霧の中に、黒いシルエットが浮かび上がっている。人間のかたち。向こう側から、縁側を覗き込んでいる。
私は部屋に戻り、ドアを閉めた。しかし、その瞬間、廊下の明かりが消えた。
暗闇の中で、縁側の障子が、ゆっくりと開いていく音がした。
ガタン、ガタン、ガタン。
霧が中に入ってくる。冷気が部屋中に広がり、息が白くなる。
「…出て…きて…」
声がした。縁側の外から。もう一人の声。
私は部屋の中に隠れ、携帯電話のライトを向けた。
障子は完全に開いていた。縁側には、誰もいない。
しかし、障子の向こうの庭が、見えない。
白い霧が、旅館の壁まで上がってきている。窓ガラスに、霧が張り付いている。
次の朝、旅館の主人がやって来て、私を起こしてくれた。
「昨日、大丈夫だったか? 昨夜は地霧がひどくてな…」
「庭が…見えなかったんです」
主人は不思議そうな顔をした。
「庭? 昨夜は庭に霧なんか上がってなかったよ。砂利の庭がある場所は、もっと先だ。障子の先は、ただの土間だよ」
私はその時、初めて気づいた。
私の部屋から見える「庭」は、実際にはなかった。
それは、壁に描かれた絵だった。
本館が改装された時、二階の部屋の壁の一部が、庭を眺められるように造作されていた。しかし、隣の建物が近すぎて実際には庭など作れず、代わりに壁に庭の絵が描かれていた。
その絵が、昨夜だけ、本物のように見えた。
そして、絵の向こうに、本当に人がいた。
主人は言った。
「あの絵は、前の主人が描いたんだって。客から『庭が見えない』ってクレームが来るたびに、何度も塗り直されたそうだが、一向によならなかった」
「…向こうに何が見えるんですか?」
主人は黙って、しばらく考えてから、小さく言った。
「見るものじゃないよ。あの絵は、庭を描いたんじゃない。向こうの世界への、穴なんだ」
その夜、私は辞表を書いた。
もう、あの旅館には戻れない。
なぜなら、辞表を書いている時、ふと机の向こうに目をやったら、そこに「庭の絵」が描かれていたから。
砂利の庭。松の木。
そして、その向こうに、黒いシルエットが立っていた。
今も、私の部屋のどこかに、あの絵がある。
見えなくても、ある。