七分早い時計
2026年03月11日
父が逝って半年後、押し入れの段ボールを整理していたら、古い腕時計が出てきた。
スイス製のメカニカル。文字盤に細い数字が並び、夜光塗料がうっすら残っていた。父が若い頃から使っていたと、昔一度だけ聞かされたことがある。
修理に出すことにした。
商店街の路地裏に、小さな時計屋があった。ガラスケースに古い時計が並び、壁一面の置き時計が一斉にカチカチと刻んでいた。店主は七十代くらいで、ルーペを額に当てたまま迎えてくれた。
「二週間いただきます」
受け取りに行くと、文字盤はきれいになって、針もなめらかに動いていた。しかしスマホと比べると、ちょうど七分早かった。
「少し合わせてもらえますか」
店主は時計を受け取り、ガラス越しに確認して返してくれた。
「合わせましたよ。ぴったりです」
帰り道、また確認した。
七分早かった。
針は七分先を指している。幽霊のように、もう一組の針が透けて見えた。
おかしな癖のある時計だと思い、そのまま使うことにした。毎朝、七分の差を頭の中で引いて時間を読む生活が始まった。
ところが十日ほど経ったある朝、電話が鳴る前に私は受話器へ手を伸ばした。
気づいたのは後からだった。着信履歴を確認すると、鳴り始めたのは一秒後だった。
翌日、駅で友人に会ったとき、彼女がまだ口を開く前に「久しぶり、元気だった?」と言ってしまっていた。
おかしい、とは思った。疲れているせいだ、と流した。
その週末、母の家に顔を出した。
「お父さんの時計、修理したんだけど、七分早くてね」
母は台所から出てきて、時計を見た。
しばらく間があった。
「お父さん、昔から七分早い人だったのよ」
「時計も?」
「時計も七分進めてたわ。『七分の余裕を持て』って口癖で。出かける前も、約束の前も」
帰ってから、父の古いノートを調べた。
死の前日のページに、時計の止まった時刻が鉛筆で書き留めてあった。
病院から意識を失ったと連絡が来た時刻の、ちょうど七分前だった。
その夜、眠れなかった。
夜中の二時過ぎ、気がつくと私は廊下に立っていた。
夢遊病は一度もない。
廊下の先に、背中が見えた。紺色のジャケット。肩の少し丸まった後ろ姿。父だ、と思う前に、後ろ姿は角を曲がった。
追おうとして、足が動かなかった。
代わりに腕時計を見た。
短針が、七分分だけ静止していた。
誰もいないはずの廊下に、肩の丸まった後ろ姿だけが残っていた。
翌朝、時計が止まっていた。
メカニカルなのに、完全に静止していた。針は、昨夜のあの時刻を指していた。
スマホで確認すると、ぴったり一致していた。
修理に出そうと思ったが、手が動かなかった。ただ机の上に置いて、その場に立ち続けた。
夕方、スーパーからの帰り道、横断歩道の手前で足が止まった。
信号はまだ赤だった。
でも私は三歩先に踏み出していた。
しまったと思って戻ると、右から車が来た。変わる寸前に突っ込んでくる車だった。
私には見えていた。
来る前から。
時計が止まっても、七分の先読みは私の中に残っている。
あの夜、廊下で見た後ろ姿がいた場所へ、少しずつ近づいているのかもしれない。
七分先には、何がある。
まだ分からない。
でもそこは、父が最後に足を置いた場所だと思う。
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